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空母「赤城」の艦橋について「狭隘に過ぎ、艦隊旗艦として支障をきたすほどだった」という評価を聞いたことがありますが、具体的にはどのようなことだったのでしょうか? またそうした状況でありながら、どうして旗艦の変更を行わなかったのでしょうか? A-140 |
- ともに機動部隊を組んだ各空母と比べても赤城の羅針艦橋はいっそう狭苦しいように思われます。艦首に向いた平面の窓ガラスが他艦では5面あるのに対し、赤城では3面しかありません。艦橋を斜めに削いだ部分が大きいのです。
この狭い床面積に艦固有の航海科が入り、機動部隊司令部要員が入ります。司令部といっても長官、参謀長、各参謀、だけでなく司令部航海科の下士官兵も入ります。作戦中は収めなければならない人数に対してとにかく狭かった、というのが実情なのでしょう。
それを理由に旗艦変更しようにも、同時期のどの艦も実はそれよりほんのわずかにしか広くありません。結局司令部が入ってしまえば狭苦しくなるのはどこも同じだったのではないでしょうか。
片
- 母艦の艦橋が小さくて狭いという問題には、これらの艦の艦橋がデザインされた時点でそこに規模の大きい司令部を置く予定が無かったという事が背景にあるように思います。
BUN
- ありがとうございました。
A-140
- >2
便乗ですが、「大鳳」の艦橋はかなり容積を持っているような気が
するのですが、母艦に旗艦設備を考慮し始めたのはいつ頃になるんでしょうか?
taka
- あくまでも推論ですけれども、規模の大きい旗艦設備を必要としたのは、昭和十三年頃、将来の第二艦隊に新鋭空母を多数集中しようと考え始めたあたりではないかと思います。
BUN