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戦時中、ドイツから日本占領下の東南アジアまで輸送船が強行突破してきたという話をきいたことがあるのですが、事実なのでしょうか? 居眠り将軍 |
- アジアで産出する戦略物資は、我が国だけにとどまらずドイツにとっても貴重なものでしたので、シベリア鉄道によるソ連経由ルートが使えなくなった後は船舶による輸送に頼っていたのが実情です。で、それが連合軍の妨害により殆ど実施不可能(1943年半ば頃)となるまで懸命な努力がなされています。
tackow
- 居眠り将軍さんのおっしゃる「輸送船」であるかは微妙ですが…
商船を改造したドイツの仮装巡洋艦がう4〜5隻太平洋方面を行動したようです。
横浜港で揮発油爆発事故で失われた「トール」
豪軽巡「シドニー」と刺し違えた「コルモラン」
等が思い出せます。
烈風天駆
- それらの船を「柳船」と日本側では呼んでいました。仮装巡洋艦とはまったく違い
ます。
間借り人
- そうですか…
しかし、どこから出発したんでしょう?
烈風天駆
- 追加
アジア〜欧州間の連絡は、シベリア鉄道といわゆる「封鎖突破船」と呼ばれる船が主体となって実施されていました。
シベリア鉄道を主とする陸路では、昭和16年1月から5月までの間に
ゴム+ゴム製品14270t 油脂18187t 食料9361t 化学製品+薬品1107t 鉱物3416t等、総計21万トン余りの物資が日本から運ばれていました。
さて、独ソ開戦に伴い、シベリア鉄道が使えなくなったため、輸送手段は船舶(中立国へ逃げ込んだ船舶等を使用)を使わざるをえなくなるのですが、その輸送量は限られています。
アジアから欧州への突破船は以下の通り
昭和16年4月〜17年5月
出発隻数:16隻
到着隻数:12隻
積み出し量:101、775t
うち到着量:75、000t
昭和17年8月〜18年4月
出発隻数:15隻
到着隻数:4隻
積み出し量:122、900t
うち到着量:29、600t
上記以降
出発隻数:5隻
到着隻数:1隻(仏海岸に乗り上げ)
欧州からアジアへは
昭和16年9月〜17年6月
出発隻数:6隻
到着隻数:6隻
積み出し量:32、540t
うち到着量:32、540t
昭和17年9月〜18年5月
出発隻数:17隻
到着隻数:10隻
積み出し量:33、829t
うち到着量:24、447t
となっております。
後半は特に暗号を解読されたのが痛く、突破船が通る予定の海域に配備されたUボートには「誤って攻撃しないように」との命令が出されていたのですが(誤ってUボートに撃沈された突破船もあったのです)。この暗号あるいは通信解読により航路や目的地が特定されるようになりました。フランス海岸に乗り上げた「Osorno」号は敵国報告書曰く「予定通りに予定の場所に現れた」とされますから、その点でも、水上船舶による連絡は極めて厳しい状態に陥っていたともいえます。
ちなみに、我が国から欧州へ向かうのが「柳輸送」、欧州から我が国へと向かうのを「逆柳輸送」と称していました。
tackow
- 装甲艦シュペーの補給艦だったアルトマルクも
ウッカーマルクと名を変えて横浜港にやってきました。
トールの爆沈の際、とばっちりを食って沈没
ななし
- 本当に来ていたんですか……すごいですね。
なにか本が出ていれば教えていただきたいです。
居眠り将軍
- >7
色々な本に掲載されているのですが、纏まったものとしては「日本海軍史」が適当かと思います。
tackow
- 7>訂正
ウッカーマルクと名を変えて横浜港にやってきました。
ウッカーマルク爆沈の際、トールはとばっちりを食って沈没
ななし