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既出ではないと思いますが、もし出てたらごめんなさい。 今まであまり意識したことなかったのですが、17年2月19日の南雲部隊によるポート・ダーウィン空襲時の各母艦の発進機数は赤城45機、加賀54機、蒼龍45機、飛龍44機で淵田中佐機の発艦開始から、旗艦上空通過まで38分を要してますが、とにかく同時に発艦した(一編隊を組んだ)機数としては各空母とも最高記録ではないでしょうか。これに次ぐのはマリアナ沖の1航戦第1次攻撃隊の翔鶴、瑞鶴の43機だと思います。 いずれにしても、加賀クラスの54機、蒼龍クラスの45機というのは、それぞれの同時発艦機数のMAXと考えてよいのでしょうか。 土屋二飛曹 |
- すみません。航空機関係のNo.2401の質問と回答読まずに質問しました。
でも、マリアナの翔鶴の46機って、攻撃隊以外の機数を含んでいるのでしょうか。
土屋二飛曹
- 翔鶴の発進機数46機というのは白浜芳二郎著「零戦空戦記」昭和43年4月発行の初版本65ページからです。今33年ぶりに読み返してみると44機ですね。私の記憶違いでした。
43機というのは発進した44機から脚が入りきらず引き返した、高橋二飛曹の零戦1機を差し引いた分ではないでしょうか。
gsz
- レスどうもです。
43機の内訳は、fc×16、fb×18、fo×9で、引き返し機は含まれていません。この数字は編成表からの抜き出しです。大鳳だけがfb×17で、他は3艦とも一緒、43×3−1で128機の計算になると思います。
土屋二飛曹
- >3 引き返し機は含まれてません。
日本語の間違い、引き返し機を含む発艦機数です。
土屋二飛曹
- 土屋二飛曹様
歴史上の数字、実際の数字というのは難しいですね。
実戦参加者が答えられるここ数年が真相をつかむ限度ですね。私の父も含めていろいろ聞き出してみたいと思います。
gsz
- 細かいことにこだわって申し訳ありません。本題はそういうことではありませんでした。
土屋二飛曹
- 昭和18年に神鷹からスマトラのサバンに向け
同時発艦した331空は
艦戦35、艦攻18機の計53機なので
結構すごい記録かもしれないですね。
ななし
- >7 市販戦記収集家の私としては、一次資料による論証は無理ですが、「神鷹」はおそらく「隼鷹」の間違いと思われます。戦史叢書第54巻、「日本空母戦史」、「日本海軍戦闘機隊」等の市販文献でも「隼鷹」となってますので。
「日本空母戦史」によると、佐伯沖で団平船により331空所属の零戦36機、九七艦攻18機、計54機を搭載、18年8月15日佐伯発、同27日サバンの北650浬で発進させたとなっています。
空母を「神鷹」と書いているのは当時331空艦攻隊長の肥田真幸さんが書いた「青春天山雷撃隊」ですが、改めて読んでみると面白いことが書いてます。
ア.先頭の戦闘機から艦首まで50mもない。
イ.あとは艦攻隊の番であるが、零戦35機が飛び立ったので、飛行甲板も前方に100m近くあり...
ということが正しいとすれば、全機を飛行甲板に上げて発進させたものと読めますね。
でも、あくまでもこれは空輸が任務ですので、参考記録ということで(笑)。
土屋二飛曹
- > 8
私も神鷹の天山空輸は珍しい話だったので覚えていますが、確かかなりの強風だったと書いてありませんでしたか?
新京ミュウミュウ
- 8>ア.先頭の戦闘機から艦首まで50mもない。
イ.あとは艦攻隊の番であるが、零戦35機が飛び立ったので、飛行甲板も前方に100m近くあり...
と言うことは、零戦35機を50〜60mぐらいのスペースに並べたってことになりますね。
う〜ん、並べ方が想像できない・・・
零戦1機全長9m、全幅11mとして、隙間なく並べるとならぶのかなあ?
源五郎
- >9
確かに、「日本空母戦史」にも、「青春天山雷撃隊」にも風が強かったと書いています。(前者の記述も肥田さんの別著の引用と思われる)
あと、余談ですが、551空(331空艦攻隊が18.9.1独立)の現地部隊(在コタラジャ)が天山を受領するのは10月末で、これは10月18日に空母千歳が24機を積んでシンガポールに入港、整備のうえ進出したものです。これも本題ではありませんが。
土屋二飛曹
- >10
源五郎様、これはあくまで個人の記憶に基づく回想ですので、あまり細かい記述にこだわらずに、飛行甲板にずらりと並んだ飛行機の光景を思い浮かべればよいのではないでしょうか(笑)。
土屋二飛曹