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1373 1944年(昭和19年)9月27日に被雷し沈没した「うらる丸」に祖父が通信局長として乗船しており、戦死しております。当時の状況等をご存知の方がおられましたらお教え下さい。
たか

  1. うらる丸が所属していたミマ11船団は、ルソン島西部の南シナ海海上(北緯15度45分、東経117度20分)に
    おいて、米潜水艦フラッシャー及びレーポンよりの攻撃を受け、うらる丸が沈没、たちばな丸が損傷した、とあります。
    因みにうらる丸を沈めたのはフラッシャー(USS Flasher:SS-249)です。
    大塚好古

  2. ミマ(ミリ−マニラ)11船団については、駒宮真七郎 戦時輸送船団史 出版共同社 1987 に2ページほど記述があります。以下関連部御紹介します。長文御容赦ください m()m

    ミマ11船団
    輸送船11隻(橘丸、うらる丸、第2山水丸、旭邦丸、信貴山丸、北喜丸、瑞洋丸、辰春丸、天晨丸、第1真盛丸、昭永丸、大峰丸、共栄丸、第6共栄丸、今治丸)
    護衛4隻(海防艦8号、25号、32号、28号)
    昭和19年9月15日 15:00 ミリ(ボルネオ島北岸の油田)発、敵襲を避けるため昼間航行、夜間避泊の航法をもってマニラ向け小刻みに北上を続けた。25日08:45パキット湾(パラワン島北東端)抜錨後状況不良のためマニラ入港を取りやめ、橘丸、*うらる丸、第2山水丸、*旭邦丸、大峰丸、*北喜丸、*瑞洋丸ほか1隻の計8隻(*印4隻が沈没)が高雄(台湾)直行コースをとり、他船はパキット湾に反転した。護衛陣はそれまでの4隻が同行した。27日08:27頃N15.55-E117.16(ルソン西岸ボリナオ岬西方220km)において、うらる丸の右舷90度 距離900mから発射された6本の魚雷は扇状に開いて本船を襲った。すかさず回避行動に移ったものの、そのうち2本が右舷炭庫及び予備炭庫に命中、船体は左舷に傾斜するとともに黒煙に覆われ、浸水激しく08:30総員退船下令、その2分後船体が左舷に横転、船首より沈没した。便乗者144名 船砲隊5名 船員40名 計189名(僚船に救助後行方不明含む)が戦死した。当時船内にはシンガポールからの遺骨696柱、還送患者、遺骨宰領者、便乗者、船砲隊など673名、軍需品、錫、ゴム、コプラなど2,938t、郵便396袋を搭載していた。それから2時間後、北喜丸が被雷沈没。2隻の遭難者は僚船に救助され、船団は待避のためルソン島サンタクルーズに入泊した。10月1日 07:00抜錨、極力沿岸よりを北上中、11:00 瑞洋丸が被雷沈没。本船には13,000トンの重油ほか うらる丸の遭難者120名が収容されていたが、うち45名が行方不明になった。11:55頃 旭邦丸も被雷沈没。
    うらる丸の写真が以下にあります。
    http://www1.linkclub.or.jp/~ichi/sbs/Senbotsu1FILE/uraru.html
    ミマ11船団の沈没船、攻撃潜水艦、緯度
    【うらる丸 大阪商船  6,373総トン 1944.09.27 米潜 Flasher SS-249 15°45'N, 117°20'E】
    【北喜丸  北川商船  5,599総トン 1944.09.27 米潜 Lapon SS-260 15°50'N, 117°41'E】
    【旭邦丸  飯野海運 10,059総トン タンカー 1944.10.01 米潜 Cabrilla SS-288 16°15'N, 119°43'E 】
    【瑞洋丸  日東汽船  7,385総トン タンカー 同上 】

    IWA


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