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日本の艦船類別のほとんどは,明治31年3月21日の「艦艇類別標準(海軍省達)」から始まっているようですが,(水雷艇の区分は明治23年の省達からあるようです)二等戦艦(計画排水量1万トン未満)と一等巡洋艦(計画排水量7千トン以上)の区分は何をもって為されたのでしょうか?その後の艦艇を見ていても,国内で建造された最初の1万トン超艦の筑波が,30センチ連装砲塔2基を備えているにも関らず,一等巡洋艦として類別されています。大正元年に「巡洋戦艦」の類別が誕生し,やっと「戦艦」と認められたようですが,明治海軍は「戦艦」と「巡洋艦」をどこで分類していたのでしょうか? 虎ノイ |
艦隊の中核をなす装甲巡洋艦が、一等巡洋艦に類別されたと見られます。
「筑波」は、新しいコンセプト(?)の兵器が登場した時に、従来の分類に上手く当てはまらなかったということです。
(N)
それから、「巡洋戦艦」はあくまで「巡洋戦艦」であって、戦艦の一種ではないと思います。当時の感覚としてはあれはどちらかというと巡洋艦です。
大名死亡
ですから、筑波型もごく自然に「一等巡洋艦」と分類されたのでしょう。あとで「巡洋戦艦」に分類し直されたのは、イギリスで「 battle cruiser 」という艦種が政治的に作られたのに追随したまでのことだと思います。
では、具体的にどんな艦が「巡洋艦」になったかと言えば、艦形が高速を狙っているかどうかで決まったのではないでしょうか。
大名死亡