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1007  初めまして富山の「gsz」といいます。
 どなたか父の疑問に答えてください。摩耶が沈んだ朝、魚雷4本を右舷に受け沈没寸前の摩耶の右舷前方約500mを父が先任下士官として乗り組んでいた浜波が通過中、浜波の右舷間近にイ号潜水艦が緊急浮上して、ゆっくり反航していったそうです。栗田艦隊の多くの艦がこの潜水艦とすれ違ったそうです。浜波艦内では一時、こいつが誤射したのではないかという声も挙がったそうです。この潜水艦は「イ41or42or47or??(古い話なので記憶が怪しい(^ω^;)」とのことです。イ号何潜が何の作戦目的でこの海域にいたのか、またこの作戦から無事帰還したのか、どなたか教えてください。また、何を調べれば手がかりが有るかでも結構です。
gsz

  1. 答えはわかりませんので、参考程度の資料を。
    日本の潜水艦の任務は、敵艦の撃破や、警戒線を敷くことだったと思います。このことから考えれば、潜水艦が前線にいることに対して、何ら疑問はありません。
    問題の潜水艦ですが、麻耶が沈んだ日、つまり1944年10月23日の時点ですでに沈没していた、伊42ということはありえません。よって、伊41か47が問題の潜水艦と思われます。
    伊41は43年9月18日竣工、44年11月18日に沈没しています。
    伊47は44年7月10日竣工、終戦まで生き延びています。
    これ以上の資料が手元にないため、上記のどちらであるとは言えませんが、伊47がいつ佐世保を出港しているかを調べてみると、何かわかるかもしれません。(竣工直後に出撃するかが怪しいので)
    なお、麻耶を沈めたのはアメリカ潜水艦、デースということになっていたと思います。
    かすた

  2. 先遣部隊電令作一七七号(10月18日)によって、伊四十一潜は乙潜水部隊
    に区分され、出撃期日である19日に呉を出撃しておりますが、その配備点
    はフィリピン東方の太平洋上であり、パラワン水道にはいたとは考えられ
    ません。また伊四十七潜は横須賀で整備中であったといわれ、こちらも当
    該海域にいたかとは考えにくいです。
    今泉 淳

  3. 質問者です。素早い回答をありがとうございました。これを見て父は「イ???」
    と言っています。やはり時間がたちすぎて記憶が曖昧です。また「何の作戦目的でこの海域にいたのか」は⇒「何でこんな所にいるのか」と言ったニュアンスのようです。敵潜の潜伏予想海域で緊張しきっている上に本当に雷撃まで受けたところへ浮かんできたのが味方潜水艦だったので、腹がたったと言うのが浜波艦橋の雰囲気だったとのことです。「大空のサムライ」で比島初進攻時に、いるはずのない陸軍機と出会い「何でこんな所にるのか」と腹立たしくなったというような記述があったと思いますが、共通点があるようです。
    gsz

  4. 当時存在していた伊号潜水艦は25隻ほどあったと思います。この中から特定するのは難しいので、海軍の命令の記録みたいなものを当たったほうが良いのではないでしょうか。
    それについて、どこで手に入れれるかは、どなたかお願いします。
    なお、潜水艦の在不在を調べるのであれば、http://www.aka.ne.jp/~deguchi/hobby/japan/index.html
    を参照すると良いと思います。

    かすた

  5. 御質問に対する回答とは全くずれてしまいますが、摩耶被雷に伴い我が第二艦隊は爆雷投下等の対潜戦を開始したのでしょうか。その場合、作戦目的は兎も角として、現場海域で潜行していたイ号潜水艦が緊急浮上したのも分かるように思うのですが。
    櫻草

  6. 櫻草様
    浜波はこのとき爆雷投下中だったとのことです。(父の話)
    gsz


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