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914  赤城や加賀の舷窓のラインが艦尾に行くに従って下がっているのはなぜでしょう。妙高級や高雄級重巡の甲板が艦尾に行くに従って下がっているのと同じ理由でしょうか。

絵塗師

  1. 資料が見つからないので、引用先が出ないのですが、
    元の戦艦、巡洋戦艦設計時より喫水線に対して艦首が持ち上がってます。
    排水量を減らした上、艦尾のスクリューを設計通りの水深にするためとありました。
    したがって改造時に新造した上部構造物は元の喫水線に対し、艦尾に向かって高くして結果として水平になるようになっています。
    理由は軍縮会議の結果、保有できる空母の総排水トン量に制限が出来たため。
    過去ログにありそうな質問ですが、とりあえず。
    yoshi

  2. 下記のアドレスより行けるHP
    「艦船の部屋」を訪ねることをお勧めします。
    (赤城、加賀の新造時の画も見ることが出来ます)
    http://avse.bpe.agr.hokudai.ac.jp/~kohta/ship.html


  3.  見てまいりました、木さん。
     やはり重量軽減のためと解釈すればよいのですね。戦艦時代には甲板の傾斜はなかったとありますから、改装が決定した時点では、喫水から上はまだほとんど完成していなかったので、そのような改造が可能だったのでしょうか。それとも、いったん出来上がっていたものを取り壊して作り直したのでしょうか。

    絵塗師

  4. >1の蛇足 赤城の場合、巡戦時の喫水は31フィート。空母への改造で単純に排水量を減らした場合、10フィートも浮き上がって21フィート。喫水が減少しすぎてしまうとスクリューの推進効率が落ちるそうで、苦肉の策として艦尾の喫水をそのままにしたということです。
     ちなみに、レキシントンの場合だと空母改造後の基準排水量が6千tも大きいので、赤城ほど減量する必要はなく、4フィートほどの喫水上昇で済んだそうです。
    tomo

  5. >いったん出来上がっていたものを取り壊して
    『出来上がっていたもの』は上部構造物を指している
    という理解で話を進めます。

    1921年の11月ロンドン軍縮会議開始の時点で(開始前に完成させるため突貫工事をしていた)
    陸奥ですら装備もままならない状態だったことを考えると、
    それ以外の艦(加賀型、赤城型)の艦上構造物が出来あがっていたとは、考え難いです。


  6. ↑日本戦艦の進水時の写真を見ると、
    艦橋構造の基礎くらいまでは工事が進んだ状態で行ったように見えます。

    陸奥は条約締結時、完成度98%だったという説も世艦にありました。
    勝井

  7. 赤城、加賀とも戦艦の時から艦首から艦尾にかけて下がっていました。その高さは甲板1層分です。「平賀譲遺稿集」と「軍艦基本資料」に艦首尾乾舷が書いてあります。「平賀譲遺稿集」には戦艦加賀の内部側面図と最上甲板平面図が掲載されています。
    また、戦艦加賀は進水時、艦橋下部とバーベルトがすでに付いていましたので、空母に改造するときには撤去しました。巡洋戦艦赤城は第2船倉甲板まで出来ていたそうで、そこから上の設計をやり直し空母にしたと聞いています。
    GO


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