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大戦中、日本の飛行艇母艦はどのような使われ方をして、どのような活躍をしたんでしょうか?停泊中に1機しか揚げられないうえ、1隻しかないのであまり使い道がないように思えるんですが。 きゃび |
任務で使われた方が多かったのではないかな?とか考えております。
結局、特務艦に変更されてますし・・・
tackow
taka
飛行艇母艦「秋津洲」は4発の大艇を整備する目的で建造されてます。
そして千歳や日進のように第1線に出ることまでは考えてません。
その少し後ろ、基地を設けられないところや基地を設けるまでの間、
整備・補給を受け持つ、基本的には制海海域での行動を想定した艦です。
勝井
工作艦「明石」同様、同型艦の建造は企図されてました。
勝井
私は飛行艇母艦は通常の水上機母艦より敵前近くに行動するように思うよ。
飛行艇母艦の運用構想は海軍大学校の「対米国作戦用兵に関する研究」という文書にあるのだけれど、そこには「陸上機の威力圏外(特に南洋群島方面)の索敵並びに攻撃に任ぜしむ・・・水上機母艦に飛行的の補給施設を考慮するを要す」とあり、かなり挺身隊的なニュアンスのある用法を考えていたと読んでいい。少なくとも勝井山の書いたようなヌルイ運用は少しも考えていなかったことは明白だと思う。
そういう使い方だと航続力の大きな飛行艇は既存の基地で間に合っちゃうんです。横須賀空の飛行艇が何処まで偵察飛行を実施していたか御存知かな?
BUN
tomo
tomoさんがおっしゃる「秋津洲」の使い方というのは、当初海軍が目論んでいた通りなんでしょうか?また1隻(計画ではもう1隻?)というのも充分妥当だったのでしょうか?
特設を含め水上機母艦の数から言って、飛行艇母艦は1隻というのは。。。
そもそもの水上機と飛行艇の数の差からいけば妥当なのかもしれませんが。
きゃび
で、ですね、少なくとも工作艦任務は窮余の策です。日本海軍は明石や朝日の他に、5隻の特設工作艦を有していましたが、19年頃までには軒並みやられてしまい、その結果、前線根拠地での修理能力が大幅に落ちてしまっています。そのため、飛行艇を整備するためにそれなりの工作能力を持っていたであろう秋津洲に白羽の矢が立ったことが想像されます。
もっとも、工作艦任務が付与されて一月足らずで沈んでしまっていますので、この任務ではさほど働いていないように思われます。
あと、勝井さんも仰っていますが、飛行艇母艦は実際に建造されたのは1隻のみとはいえ、昭和16年のマル急計画で同型の千早、17年の改マル五計画では同型3隻の建造が予定されています。結局、起工すらされていませんが、それなりに数を揃えるつもりはあったのではないでしょうか。また、特設艦で飛行艇母艦が作られなかったのは、舷側の高い商船では飛行艇の収容が困難だからではないかと思います。
ちなみに、飛行艇母艦の正式な分類は水上機母艦だそうです。
tomo