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文禄・慶長の役で、日本水軍は朝鮮水軍に徹底的にやられてしまいましたが、その理由の一つとして、よく朝鮮水軍の「亀甲船」が挙げられます。しかし、鉄板で覆った船ならば、織田信長も九鬼水軍に建造させていましたし、秀吉も、慶長の役では、船舶に鉄板を張ることを指示しています。しかも、一説によれば、亀甲船は数隻程度しか存在しなかったともいわれています。朝鮮水軍が海流などを熟知していたことはわかりますが、それでも、なぜ、日本水軍があそこまで惨敗したのか理解に苦しみます。つきましては、皆様の、ご見解をお聞かせ願いたく存じます。 九鬼 |
・各個撃破された。
(指示系統が徹底されていなかった)
・朝鮮半島近くの海戦になれていなかった。
(ほとんどの水軍は瀬戸内海で活躍していたため)
ではないでしょうか。
如水
指揮系統については、秀吉の直接指揮がなかったので(秀吉が朝鮮に渡海していなかったので)、確かに統一は取れていなかったと思います。瀬戸内海は内海ですから、朝鮮半島の海とは、やはり違いがあったのでしょう。それにしても、信長の鉄甲船は、どうなちゃったんでしょうね。
九鬼
「本能寺のごたごたで放置されてしまい、錆びて使用不可になってしまった。」
と回答されてたのを読んだ覚えがあります。
ノウハウを知っている船大工は多分いたはずなのに、
どうして朝鮮の役で再建造しなかったのかはよくわかりませんけど・・・
せん
勝井
理解できます。ありがとうございます。
亀甲船にしてもそれほど数は多くなくて、やはり戦術的な問題だったと思います。
日本水軍が朝鮮の海流や海峡の潮の流れに関する知識に乏しく、それを上手く利
用した朝鮮水軍が勝利したと思います。
結局、秀吉が集めた鉄板も、鉄甲船の建造には使われなかったのかもしれませ
んね。
九鬼
に差があったから。通常サイズの火縄銃を大きくした程度の
大鉄砲では船体に損傷を与えられない。
信長の鉄船・・・毛利水軍の焙烙火矢(時限信管付榴弾)に
対する防御のための装甲(実際に鉄張りだったかは不明)なので
朝鮮の天字銃・地字銃(どちらも口径は10cmぐらい?)
にどこまで通用したかは未知数。
くらま
鉄甲船は内海用(よくある想像図から見ると、帆もないし、重心高いし、 とても外海航行できそうに思えないです。
あれは言ってしまえば「和式ガレー」ではないかと)
→すでに日本に敵はいない
→必要性がないので建造もされない
の流れではないかと思ってます。
相変わらず根拠ないですが。
勝井
ただ、それでも疑問なのは、鉄甲船の威力を知っていた秀吉が、なぜ朝鮮出兵では建造しなかったのか、あるいは、模造しなかったのかということです。
信長の鉄甲船そのままでなくとも、改良を加えるなどして建造できたのではないかと思っています。内海用の鉄甲船を外海用に改良するのは、それほど困難だったのでしょうか? そこのところが、よく分かりません。
九鬼
鉄甲船って村上水軍の焙烙火矢対策に鉄板を張ったそうですけど、確かこれ、防火、防延焼対策でしたよね。装甲としてはあまり役に立たないのではないでしょうか。焙烙は火薬を使ってはいるものの、焼夷弾の一種だったと思うのです。ですから、薄っぺらな鉄板でもそれなりに用は足します。銃弾を防ぐのは鉄である必要はありませんし。さらに、石山合戦での鉄甲船の活躍は大鉄砲にその多くが寄せられると思います。遠距離からでも船縁ごと相手を打ち抜ける、もしくは穴を開けることができるでしょうから。当時の九鬼水軍の強さの象徴として鉄甲船があったのではないかと思います。
で、亀甲船ですが、これは始めから装甲板の重量も考えて設計されたものだとか。多分、日本の鉄砲に対抗したものでしょう。鉄甲船が上記の通りなら、防御に対するコンセプト自体が違いますね。朝鮮水軍の主力は大型船でしたから、浅い海でこの船が大活躍しています。それに対して日本軍は中小船が主力でした。
また、日本が基本的に銃撃と接舷切り込みを主戦術としていたのに対し、朝鮮では砲撃と焼き払いを主戦術としていました。焼き払うときに使う焙烙の兄弟、震天雷は臼砲から打ち出され、大きいのだと120斤(720s)にもなります。元来、焼夷用ですし、容器は水鉄、中には殺傷用の菱鉄も入っていますが、結構な破壊力だと思います。薄っぺらな鉄板位ならボロボロにされてしまうかもしれません。
tomo