327 |
大和型4番艦の名前は何になる予定だったのでしょうか? 「信濃」と対になる名前なんでしょうけど。 A5MIX |
BUN
Takky
弱い様な気がします。と言っても、私は何も思いつかないんですけど。
A5MIX
Navy
Sampon
「武蔵」・・これは新旧の首都ですね・・文化的には「伊勢」と「日向」・・皇室に関係有る神社から・・)といったように姉妹艦でそれぞれ関係が深い国名を選んでいます。で本題の大和級3番艦(実質的には改大和級だから「大和」「武蔵」とは別に繋がりがないように見える)「信濃」と対になる国名としては無難なところでは戦国時代の領主である武田氏繋がりで「甲斐」となるのではと思いますが、この線で攻めていくと更に「越後」という可能性もあります。こちらは源平繋がり(越後の上杉謙信は平氏の末裔と称しています。)ですが、大和級も信濃級も同じ大和級と見れば1,2番艦がそれぞれ東西の都から艦名を戴いた以上それに繋がる物として東西それぞれの武門の統領であった源平双方に関係がある「信濃」、「越後」もあったのではと思います。
Ketzer
初のド級戦艦、扶桑(日本)と山城(王都)の同心円的命名が、大和、武蔵の命名にも反映されていると私は考えています。大和(奈良県)は大和(日本)でもあった、という訳です。
本来、扶桑型戦艦の三番艦、四番艦であった伊勢、日向の命名が記紀の神話を背景とした宗教的なものであることは当然ですが、大和武蔵が扶桑山城と同様の命名を行なっていると思われる以上、三番艦が信濃であるなら、やはり記紀神話から採られていると見るべきではないでしょうか。
その場合、合理的なのは、例えば、出雲ではないでしょうか。
そう信じている訳では無いのですが、こうした方向で考えるべき問題だとは思います。
BUN
Ketzer
しかし、神社仏閣の所在地を命名することが宗教的、あるいは呪的な命名法なのではありません。
説明できない、とされた加賀、土佐は長門、陸奥と連なる日本国土の四方を象徴する道教的な命名法であることは明白でしょう。近頃流行りの風水ではありませんが、地理そのものも呪術として応用されるべきものなのです。
また、明治期には武士も華族となり偏見も無くなり・・・という件に関してですが、近代の常識では武士を賤視することは正すべき偏見ですが、近代とは無縁な絶対的な浄、不浄の選別基準を持っていた天皇には正すべき偏見など最初からありません。更に南朝正当論を掲げた明治以降の天皇家が仇敵である武家の棟梁、徳川家との因縁を戦艦の命名に反映されることは徳川家を制圧する目的以外では考えられないことでしょう。新田氏を先祖とするから等、それなりに理屈はつくように思えますが、新田義貞は太平記に「えびす」と呼び捨てられています。天皇家の基準から見れば、武士等が活躍する「最近の」歴史は顧みられることは無かったのではないでしょうか。
別に私はオカルト趣味の者ではありませんが、例えば、松代大本営に設置予定だった賢所が御座所と伊勢神宮を結ぶ直線上に正確に設置するよう厳しく計画されていたこと等を見るにつけ、こうした角度から見なければ理解できない事柄も存在するものだと思っています。
BUN
BUNさんが仰有るように私も宗教的、呪術的な要因を否定するつもりはありませんが、果たしてそれだけが絶対条件かというと疑問です。BUNが仰有られた道教的(私は陰陽道の発想だと思いますが)要因のみが「長門」級「加賀」級の艦名選択基準なら、日本(この場合他の3艦が全て本州の国名である以上その宗教的守護対象は本州のみを指していたと考えられます。天皇家から見れば九州は自らのルーツとはいえ、大和に移った天皇政権が誕生してからは征伐すべき蛮地ですから、また四国も表だって征伐したとの神話歴史こそ無いですが代々流刑地になるほどの辺境ですし。北海道は論外なんだろうな。)の四周を守るという発想ならその艦名はあくまで本州から選ばれる様な気がします。(東西南北それぞれの守護と見れば南は「紀伊」を用いるのが自然では・・「伊勢」も有るのでしょうがこちらは命名済みですし。)それが何故陰陽道の観点で日本と認められていなかった四国から「土佐」なのか呪術的な要因では今ひとつ理解できない気がします。
更に武門に対する考え方も中世の天皇家と明治、大正、昭和(前半)の天皇家とでは全く違います。明治の天皇家はいってみれば古代の天皇家と同じ普遍的な君主であります。これは明治憲法で「天皇は軍を統帥す」と明記したように、律令制度の模倣に失敗して軍事力の維持が出来ず、最終的に軍事権を放棄した中世の天皇家とは異なり、明治天皇以降の天皇は軍事という穢れをタブー視しておりません。勿論それを補弼した閣僚も殆どの者が武士上がりですので同じように武力や軍事にタブーはありません。太平記の時代のような空想的観念論者はこの時代いなかったと考えられます。また軍事が天皇家のタブーなら、明治天皇自ら戦艦の艦名を決定することなど以ての外となってしまいます。
また日本の宗教的特異点として過去に敵対した人物、宗教も最終的には勝者側の体制内に取り込んでしまうことがあります。古くは大国主命から平将門のように体制に反攻した敗者も神として祭り上げることで自らの守護者にしています。明治維新以降、かって武士として天皇家を蔑ろにした者達も完全に天皇家に忠誠を誓う部下として自らの勢力下に置いています。(最大の権力者として天皇家の人事にすら介入した徳川家も明治大正には1公爵か伯爵として天皇家を中心とした貴族階級の1員となっており完全に天皇家に敵対する実力はなくなっています。)つまり過去の対抗者を屈服させて自らの傘下とした事を示すために「紀伊」級として徳川1門の領国を艦名にするというのも宗教的、呪術的な意味を持つのではないのでしょうか。
このような観点からも、私は帝国海軍戦艦の命名基準には、武門はタブーとか宗教的、呪術的要因のみということはなかったのではないかと思います。
Ketzer
各論において少々見解が異なりますが、二、三の事実の指摘で了解いただけると思います。
たとえば道教的世界観(陰陽道と同義)で、日本がどこから何処までか、という問題などは、対馬、小笠原を四方の要に置く例もあり、重層的に存在していたと考えるべきでしょう。
また、天皇が軍事そのものを賎視したのではなく、武家の武勇を賞揚するのは不自然だということです。また、太平記の時代の空想的観念論者(北畠親房などでしょうか)が近代にも存在したからこそ、貴兄も一部認められているような宗教的命名法が実施されているのです(この辺は笑い事じゃない部分もありますが)。しかもそこに現世での利害得失がからまない(宗教だから当然)のであるなら、一部が実施され一部が保留される等ということは極めて不自然なことでしょう。
問題は、雑学的に個々の由来を考察するのではなく、合理、不合理は別の話としてひとつの原則を見つけ出すことではないでしょうか。
BUN
まず本来の大原則に則って天皇が命名する前に、まず海軍側で予定艦名の対象国名の品格、語感、地理、歴史的条件、宗教呪術的要素など様々な観点から議論された後、予定艦名としてふさわしいと判断された艦名をリストアップした物を海軍側から天皇に上奏し最終的な決定を仰いだと考えます。この際に第2の原則である「和」の精神が発揮されたと私は考えています。つまり関係者全てが天皇の決定に不満を持たずに納得する艦名を選ぶため、敢えて予定艦名を海軍側の会議で話し合って決定したのでは無いかというのが私の私見です。(これがこの国始まって以来の普遍的意志決定方法ですから)
我々がこれまで論じて来た様々な要因は、あくまで「戦艦の命名には旧国名を用いる」という原則を適用する際の付随条件であると私は思っています。故にこのような艦名決定方法を用いる以上、竣工した主力艦達には一見、宗教的な要因が色濃く滲む艦名が用いられたり、別の主力艦には元勲の旧領からというように、非常に世俗的な艦名が命名されたりしたのではないかと私は考えています。
PS 天皇家が武家を賞揚するのは不自然とのご指摘ですが、明治以降の歴史観では、古今無双の忠臣「大楠公」として武人であった楠木正成を絶賛し、臣下の鏡と
して当時の小学生達の教科書にまで取り上げ、忠孝の見本として教育しております。少なくとも明治以降の天皇家では武家の中でも天皇家に忠義を尽くした武将
には忠臣として賞揚するようになっております。これは不自然でも何でもなく、
ただ富国強兵という現実のためでありましょう。幕末以降、神国日本の危機には
神風頼みという観念論では、もはや国家鎮護も国土防衛もままならぬ時代です。
それを悟った天皇家(というより幕末から明治まで西洋列強の驚異をつぶさに見
続けた明治政府の元勲達とこれまで激動の時代を同じく体験した天皇本人)が日
本の現実的生き残り策として、それまでの観念的平和論者である平安天皇家から、
軍事についても天皇自ら頂点に立っていた古代天皇家に範を求め、その時代の天
皇家に回帰を決意した時、武家に対するそれまでの視点も変更されたと考えた方
が自然でしょう。その際に中世以降明治まで代々天皇家のブレーンとなってきた
陰陽道や宗教勢力も、古くさい前近代的な偏見として表だった勢力を失って行く
のはご存じのことと思います。つまり既存の宗教や呪術ではこの国を守れないと
いうことを悟った時、日本人達はこれらの替わりに西洋の科学技術を新しい宗教、
呪術として信仰の対象としたのではないのでしょうか。
勿論、日本人の常として古い宗教や呪術にもそれなりの信仰を払うのは当然で私はその残滓とも謂うべき物が松代大本営の御所の位置や艦名の基準として、その決定にある程度影響は与えたと思いますが、そこには中世の様に天皇自ら陰陽氏に日常生活の隅々まで伺いを立てる程であった勢力は無かったと考えます。つまり明治以降、天皇家すら西洋の文明を新しいブレーンとして取り入れ、それまでの古い歴史、宗教的要因に全てを束縛されることは少なくなっていたと考えた方が自然であると私は思います。
Ketzer
私は自説が絶対に正しいとは思いませんが、徳川あり、戦国ありではあまりにキメラ的ではありませんか。
武家と宮家について貴兄の同意を得るのは何だか難しそうではありますが、一つの学説として捉えた場合どうでしょうか。
方位、聖地を包括した命名法で解読できる既存戦艦名が確認できる以上、更に加えてお国づくし的な命名法を加えるのは仮説としても少々非論理的に思えてならないのです。
しかし、この問題自体、我々ミリタリーマニアにとっては少し荷が重すぎる研究課題でもあるような気がしますが、それでも少しずつ考えてみたい事柄ではあります。
また、最近出版された「未完成艦隊」なる本にも徳川御三家説がありますが、読まれた方はお判りのようにあの本は「御見立てを楽しむ」本であって解説者の今井氏等自身が命名の考証に責任を以て当たった書ではありません。
BUN