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こんにちは、はじめて書き込みします、よろしくお願いします。 大和は沖縄特攻で沖縄にたどりつけたとき、砂浜にのりあげて砲台になる予定だったと聞いたことがあります。あんな巨大な戦艦が砂浜に乗りあげることができるんでしょうか?あるいは浅瀬で動けなくなるまで、行けるところまで行く予定だったのでしょうか? 戦艦が海岸の砲台になった例はあるのでしょうか? 初心マン |
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大和は作戦途中で沈められた訳ですが、作戦目的としては沖縄に到達して砲台に
なると良く言われています。ただ沖縄到達時の具体的な行動予定に触れた書物を
仮想戦記^^;以外に見た記憶がありません。
いつ頃に沖縄に到着予定で、どこに乗り上げて、その後の行動予定はどうだったの
か?、そこらへんがあの特攻計画には具体的な作戦計画があったのでしょうか?
まさか作戦計画書が白紙って事も無いように思うのですけど・・・
(ついでに沖縄の現地軍は大和が来る事を知っていたのでしょうか?)
佐藤利行
第二艦隊司令部の発案だと言うてましたが…(決断の武蔵と大和の悲壮な最後の話は忘れられない…(T^T))。
大塚好古
現地調達用に資金も用意してあったという話も聞いたことがあります。
プリンケプス
様々に伝えられるドラマチックな逸話はあるにせよ、天一号作戦計画には大和の砲台的な用法を指す言葉は無く、単に「航空作戦有利なる場合、第一遊撃部隊は特令により出撃し、敵攻略部隊を撃滅す」とあるようで、この方針がそのまま、最大の航空攻撃であった菊水一号作戦に呼応して実施されたと解釈するのが自然な気がします。
よく、裸で航空援護無しの出撃、と言われる大和部隊に実際は護衛戦闘機隊が付けられていた様に、広く伝わる「乗り上げて砲台」という言葉も無謀な突入作戦を際立たせる為に強調して伝えられた表現の一つであって、作戦の実態は今まで何度も立案され、実施されても来た泊地突入作戦の小規模な再現に他ならないのではないでしょうか。
また、陸戦準備がなされたとの記録も読みますが、乗員3000人分の小銃等が搭載された形跡も見当たりませんし、吉田満氏の手記にも過酷な訓練については語られても陸戦訓練については全く触れられず、単に大型艦が警備等に使用する小銃機銃類のことなのでは、とも疑ってしまいます。
もし大和の沖縄突入作戦が正式に立案承認された、文字通りの絶対的な必死特攻、陸地乗り上げ作戦であれば、艦隊司令部に対しての説得工作や、中途での作戦中止など、腑に落ちない件が多くあり、やはりこの作戦は基本的には通常の泊地突入作戦として位置づけられていた、と考えられるのではないかと思います。
BUN
に座礁出来れば良し、下手な場所に乗り上げて船体が傾いたら主砲の旋回や照準
に支障をきたします)、だから、もし本気で乗り上げて砲台になるつもりなら乗
り上げる場所や時間は重用で(潮の満ち引きで水位が違いますから)威勢はいい
のですが実施には綿密な計画がいると思います。
(少なくとも大和が水平に座礁出来る海岸線の選定は必要です)
だから、それなりに事前調査や行動計画がないと実施出来ない筈なんですが、
(「現地軍は大和が来る事を知っていたか?」は海岸に乗り上げるなら現地の海岸
線の状態を知る上でも、また乗り上げる際の誘導でも、地上部隊の協力があれば
楽だろうと思うので)
でも、そんな話しは伝わって来ないし・・・・
私見ですが、BUNさんが言うように、大和特攻はガ島争奪戦やフィリピンのホセ
突入作戦で実施された普通の「泊地突入」を企図して、その後の行動予定としては
「帰還は無理であろうから、最後は海岸に乗り上げて沈没を防ごう」程度の腹づも
りだった方が、最初から「海岸に乗り上げて砲台になる」とする計画よりも現実味
があるし、現場の判断としても自然な発想な気がする私です。
(ただし、たどり着ける可能性を信じていればの話しですが)
大和特攻に関しては連合艦隊の「泊地突入後、全艦擱座し陸上戦闘を支援すべし」
との命令が戦後の読み物で大和の特攻出撃の悲壮さを印象付けものとして強調され
これが例の「片道燃料」の話しと合わさって「海岸に乗り上げて砲台になる」と
言った話しに誇張された様に感じているのですが、ただ上の「全艦擱座」の命令も
正式なものか、作り話なのかが分かりませんので、実際に沖縄到達後の具体的な
行動計画が存在するのか?と思った訳です。
佐藤利行
連絡を受けたとき、志はありがたいが成功の見込みが無いし、例え
たどり着けても意味がないので中止するように意見電報を発したそうです。
けれども海軍側でそのような記録は発見されていないので
誰かが握りつぶしたようです。(いわれなくてもわかってるからね)
そんなわけで戦後に本当に決行されたと聞いて驚いています。
詰まるところなにも考えていなかったということでしょう。
名無しさん
たどり着き上陸地点へ砲撃をしたとしても、32軍は首里の複閣陣地で
戦略持久をとる作戦を実行していたので、呼応して何らかの行動を
採る余地はありません。なぶり殺しにされるのを遠望するのが
関の山だったはずです。
陸上作戦との摺り合わせを行おうと努力した形跡は全く見られないので
立案した側もたどり着けるとは端から信じてなかったのでしょう。
名無しさん
ってのは論議されていたようです。何案かあった様ですが。結局、戦闘可
能な人員と兵器は揚陸させ、フネは浮き砲台として用いる。らしかった。
と「戦史叢書」にあった筈‥‥です(今、会社なもんで‥‥)。
確かに、乗り上げても傾斜の為、有効に兵器が使用できないだろうし、敵
の攻撃も回避出来ないでしょうから。
takukou
(ただ協力依頼と言うより「大和が行くぞ!」って感じの激励文の様な感じを
受けますが)
それでやっぱり・・・皆まじめに沖縄にたどり着けるとは思っていないんですね^^;
佐藤利行