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下の大鳳の件について考えながら疑問に思ったのですが、出撃記録のない九九艦爆の用途は本当に対潜哨戒だったのでしょうか。マリアナ以前の龍鳳、レイテ直前の瑞鶴等の写真から、対潜哨戒任務は六番を両翼に懸吊した零戦が当たるものなのではないでしょうか。九九艦爆の対潜哨戒の例は他にあるものなのか、ご意見願います。 BUN |
おりません。
あ号作戦の際に関する99艦爆の行動については小生の発言が元であり、その根
拠は知人の調査に依っていて小生自身は一次史料などに当たっておりませんの
で、知人に問い合わせてみたいと思います(本人から直接回答があるやもしれま
せんが)。
「例は他にもあるものなのか」については、一般的な議論として承らせていただ
くならば、例えばハワイ作戦の帰途、昭和16年12月15日の機動部隊において
は、「対潜哨戒と前路哨戒は第五航空戦隊の任務として日出から日没30分後まで
これを実施させ、別に第一、第二航空戦隊については対潜攻撃のため各艦艦爆三
機づつを甲板待機とさせ」とあり、17日「〇九三五対潜直衛の艦爆一機が『赤城
』から、六、〇〇〇米のところで潜没中の潜水艦一隻を発見攻撃し」などともあり、
これを信じるならばその手の実績はあるものと判断します(括弧内は戦史叢書「ハ
ワイ作戦」からの引用)。多分、行動調書の類を調べていけば、まだ色々と出てき
そうな気がします。
また、山川新作「空母艦爆隊」には、昭和17年10月頃(南太平洋海戦後)の空母隼
鷹飛行機隊行動調書からの抜粋があり、そこには明瞭に「対潜警戒」「対潜前路警
戒」「対潜直衛」などの文字が見えます(もっともこのときは、艦攻隊は全滅した後
ですが)。さらに、松浪清「命令一下、出で発つは」には、「大和」に随伴した「大
鷹」において「この二週間は対潜直衛と索敵飛行に始終した。対潜直衛は戦闘機隊、
艦爆隊が交代で」などの記述があります。戦闘機隊にしてもその種の任務を負って
いたのは各種記録からも明瞭ですが、一方白浜芳次郎「最後のゼロ戦」では、翔鶴
沈没後瑞鶴に移った筆者が、南少尉から「艦爆隊がいままで対潜哨戒をやっていた
が、ごらんの通り飛行機も少なくなるし、経験者が少ないので戦闘機隊にも当番制
が回って来た」などと言われた旨の記述もあります。
要するに、対潜直衛た対潜警戒が艦爆の専売特許なのではなくて、「場合によっては
艦戦もその任務に当たった」とするのが、とりあえずの解釈として妥当な気がします。
今泉 淳
しかし「いままで艦爆隊が・・・」との話は興味深いですね。レイテには艦爆隊はもともと参加していない為に対潜哨戒の装備をした零戦が写真に残っているのかもしれませんね。
BUN
ね。というか、「『使われた実績として対潜哨戒用だった』程度の記述にすべき
である」との指摘なら、「然り」と答えるのが妥当だと思います。戦闘詳報には
その手のたぐいの記述があるとの話なので(じきに詳細な情報が得られると思い
ます)、事実としては間違いないでしょう。ただ、敵艦隊の攻撃にまともに使う
気があったかどうかは、私の手元の資料では確認どころか、推測もできないです。
零戦の対潜哨戒ですが、龍鳳にしてもそういう写真が残っているのは知ってます
し、戦闘機ですら対潜哨戒を分担することがあるということは事実だと思います
が、実際にそれをやるかどうかはその場によって違うのではないかと思います。
搭載している機種や機数などによって変わりえると思いますし、白浜芳次郎さん
の記述にしても、(あの手の回想とか戦記に事実の確実性を求めるのが土台無理
なのであまり絶対視はしてませんが、仮にそういう事実があったとすれば)「い
ままで」の意味は、多分あ号作戦当時の第三艦隊なり第一航空戦隊なり、あるい
は甲部隊でそのときそうしていたってことなんだと思うのです。慣例的にそうだ
ったかどうかは、私としても資料を得ません。
捷号作戦のときは、搭載した機種や機数に偏りがあったりして、仮に本来複座以
上の飛行機で実施したくても、索敵機に充当せざるを得なかったなどの事情が潜
んでいるかもしれませんしね。
戦闘詳報や行動調書などによって、網羅的に調べてみれば一定の傾向(あるいは
傾向がないということ)が分かるかもしれませんね。
そういえば、思い出して今確認しましたが、海兵61期の高橋定さんが瑞鶴でソロ
モン方面に向けて内地を出発した後自ら対潜哨戒に出たような記述をしてました
(丸別冊太平洋戦争証言シリーズ9、「ソロモンの死闘」の「瑞鶴艦爆隊とガダル
カナル作戦」)。まあ、手記だから信じてよいかどうかは別問題ですが、一応参
考までに。
今泉 淳
哨戒行動が可能な搭乗員が少ないので
出来る人間にやらせた、そして彼の場合は乗機が零戦だった
そーゆーことなのでは?
でもって艦爆ですが
予備機とかの目的もあったのでは無いでしょうか?
大鳳の性格から他空母機の収容も想定されているはずですし
SUDO
BUN
そうです。
>哨戒行動が可能な搭乗員が少ないので出来る人間にやらせた、そして彼の場合
>は乗機が零戦だったそーゆーことなのでは?
それもあるでしょう。直前の記述として、南少尉が「おい、搭乗員、誰か戦闘
機隊で対潜哨戒の経験者はおらんか」とどなるように言った旨あります。だか
ら、
>場合によっては艦戦もその任務に当たった
と書いたわけです。あと、
>出撃記録のない九九艦爆の用途は本当に対潜哨戒だったのでしょうか。
第一機動艦隊のあ号作戦戦闘詳報と601空戦闘詳報には、99艦爆が対戦哨戒
と速吸の捜索に使われた旨の記述があるそうです。それと、
>二航戦参謀の強い要求で彗星を652空に分派した結果、
これは知りませんでした。興味があることなので、何に書いてあるのか教えて
いただけるとうれしいです。
今泉 淳
BUN
軍令部か航空本部かで、低速の隼鷹、飛鷹での発艦の困難性を忍んでも、
低速の99艦爆に代わって彗星を供給する旨述べたことではないでしょう
か。このことをおっしゃっているのであれば、出先(リンガとかタウイタ
ウイ)でのことではなくて、中央での折衝中のことになります。このこと
は、淵田奥宮「機動部隊」にその旨の記述があったように思います(他の
奥宮氏の本にもあったかもしれませんが)。
今泉 淳
航空戦隊の彗星に対し、第一機動艦隊の参謀(多分、航空甲参謀の青
木中佐)から、彗星を搭乗員もろとも移乗させてしまってはどうか、
との提案があったが、阿部飛行隊長や久我分隊長に対して諮ったとこ
ろ、「不便であっても現状のままを望む」旨回答があって、結局彗星
隊はそのまま隼鷹、飛鷹に載せられたままになったようなことも書い
てあったと思います。たしか、第一航空戦隊での彗星の不足も原因だ
ったような記述だったような記憶があります。
今泉 淳
も載せていた事実があるわけですから、完全に彗星だけにするわけには行か
なかったということなのでしょうね。
今泉 淳
BUN
「彗星を搭載するからには搭乗員も同数組転勤してくるのが当たり前」というものであれば、601空の九九艦爆も同様で、こうしたことはひょっとしたら「自明の常識として語られなかったこと」だったのではないかな、と考えました。
BUN
>だったのでしょうか。まして、母艦に乗り組んでからの慣熟訓練等は不
>自然な気もします。本来、地上で2ヶ月〜3ヵ月の時間を必要とするよ
>うに思うのですが・・・。
職場にいるので今手元に資料が全然ないのですが(でも、実は戦史叢書の
大本営海軍部・聯号艦隊<1>が鞄に入っていたりする(^^;))、652空の編成
状況や訓練状況こそ、戦史叢書「マリアナ沖海戦」や奥宮さんの著書に
書いてあるはずです。具体的な記述は覚えていませんが、さすがに幹部
や基幹搭乗員にはある程度の熟練者を割り当てたような記憶があって、
淵田奥宮「機動部隊」には、彗星隊の指揮官たる652空飛行隊長阿部善次
郎大尉の人事局による配員について(多分奥宮氏自身が)満足した旨記述し
ていたと思います。
652空の搭乗員に限らず601空もそうですが、新機材(彗星、天山)に初め
ての搭乗員は横空などの講習を経てから慣熟飛行やらその手の訓練に入っ
たはずで、特に652空の編成は他の航空隊に比べて遅れていたこともあっ
て、タウイタウイ進出までぎりぎりだった模様です。阿部氏だか奥宮氏だ
ったかいずれかは忘れましたが、内地出撃まで着艦の訓練が1回程度しか
なかったようなことを書いていたような記憶もあります(ちょっと記憶が
怪しいのですが)。
要するに、それだけぎりぎりだったわけで、奥宮氏自身母艦航空部隊の
新規編成に都合7回携わったと書いていますが(アリューシャン作戦前の
4航戦、ミッドウェー海戦後の2航戦、南太平洋海戦後の2航戦、い号作戦
後の2航戦、昭和18年9月に26航戦から再度2航戦に戻ってきた際、あ号作
戦前。あれ6回じゃ足りないな。えっと、ガ島戦開始後に1航戦が出撃し
た後も1回にカウントするんだったかな)、最後のあ号作戦の直前は本当
に大変だったと書いてあったように記憶します。
ちなみに、601空の99艦爆ですが、少なくとも戦史叢書「マリアナ沖海戦」
に、652空の4月1日現在(?)の保有機数が記載してあって(この時期はまだ
内地で訓練中)、その中に別途大鳳に数機(数は忘れました)の99艦爆を搭
載中である旨記述があったと思います。なぜ652空の保有機をこの時期の
大鳳に積んであるのか理由は書いていないですが(601空の訓練用に供与
したとか?)、もしかしたらこれが関連するかもしれないですが、推測の域
を出ません。
、
今泉 淳
2航戦の飛行機隊と司令部がそのまま26航戦に移ったとき、元の26航戦の飛
行機隊と旧2航戦の飛行機隊を編成しなおしたんですね。訂正しておきます。
今泉 淳
思いますよ(「専売特許じゃない」って書き方はちょっと誤解を招いたかもし
れませんが)。ミッドウェー海戦のときなんかは、水偵がやっていたんじゃな
いですか。ただまあ、場合によっては単座機でもやむを得ず使ったことはあ
るのではないかということで。
今泉 淳
直掩機と兼務であったとか、滑走距離が短い、あるいは甲板上での運用の都合など、それなりの利点が在ったのではありませんか?
BUN
った」というものです。例えば、航空戦隊単位で行動していれば、複座機
以上の飛行機の数がそれなりにあったとしても、単艦行動、さらに小型空
母の場合は、戦闘機といえども分担せにゃならんことはあろうと思うので
す。無論、個艦それぞれのそれ以外の事情や運用上の問題に起因すること
は十分考えられますが、写真が残っていることそのものだけでは、それ以
上の推測はやや難しいと考えます。
こういうことは、行動調書とかそういうのを丹念に当たって、統計的な傾
向を掴んだ上で、個艦それぞれの事情を考慮して推定するのが妥当なよう
に思います。
今泉 淳
(淵田との共著)、「さらば海軍航空隊」、「日本海軍が敗れた日」です。
「日本海軍が敗れた日」は、「機動部隊」の後半部と「さらば海軍航空
隊」をくっつけて、更に加筆したような内容の本です。
今泉 淳
四 海軍航空の術科、機材の概要の「哨戒、捜索、偵察」
には、捜索について「海上部隊の行う捜索は、戦術的の
ものであり、艦隊の運命を支配することが多いが、実施
の機会が少ない点は、基地からの哨戒と異なる点と言え
よう。これは敵水上艦艇を目標とする捜索と、部隊自衛
のための対潜警戒とに区別できる」「海上部隊の捜索の使
用機は、空母搭載の艦攻、警戒艦の三座、及び二座水偵
である。」とあります。また、「艦隊の対潜警戒は、前路
警戒と直衛とがあったが、いずれも肉眼で捜索するもの
であった。前路警戒は対水上艦艇の警戒を兼ねたもので
あった。使用機は、直衛は降下爆撃が可能な艦爆、二座
水偵であった。」とあります。
これらからして、対潜警戒(直衛)、対潜警戒(前路警戒)、
捜索などの任務があり、前路警戒と捜索は兼ねて行われる
性格のものであると考えられます。
本件の出典や根拠などはこれ以上語るところがないので
それ以上の議論は不可能ですが、一般に前路警戒には二座
以上の飛行機が、対潜警戒(直衛)には二座の艦爆や水偵
が用いられていたものと、戦史叢書から読み取れるように
思います。
前路哨戒は、艦隊の視界外への行動を前提としているため、
航法能力を有する二座以上の飛行機であることが必須であっ
たものと思われます。これからして、単座の艦戦が対潜哨戒
を実施したのは、艦爆や場合によっては三座以上の飛行機が
いない場合の(艦隊の視界内における)対潜警戒(直衛)に対し
て、と推測するものであります。
今泉 淳
参考までに知りたいのですが、現存する写真が掲載されている雑誌や
文献などがあったらお教え下さい。「龍鳳」から翼下に爆弾を懸架し
て発艦せんとする零戦の写真は、1974年の「世界の傑作機」に載って
いるのを知っています(現物持ってるもんで)が、それ以外どの程度そ
のような写真が現存するのか、あまり考えたことがなかったもので。
今泉 淳