280 |
50機だ、70機だといろいろ意見がありますが大鳳の本当の搭載機数は?マリアナ沖海戦時と烈風や流星搭載時では違うらしいですけど。 BB |
また、戦闘機、攻撃機、爆撃機の構成比率によっても変わる
でしょう。その50機、70機、という数字の根拠は?
SADA
karo
BUN
「最初の計画では、96式艦上戦闘機24機(常用機18機、補用機6機)、99式艦上爆撃機24機(常用機18機、補用機6機)、97式艦上攻撃機30機(常用機27機、補用機3機)の計78機となっていたが、途中で何回か変更され、最終計画では17試艦上戦闘機(烈風)19機(常用機18機、補用機1機)、17試艦上偵察機(彩雲)6機(全機常用機)、16試艦上攻撃機(流星)36機(全機常用機)の計61機となり、うち艦偵6機と艦攻7機は、飛行甲板へ露天繋止とされた。(中略)
だが実際には搭載予定の艦上機は本艦の竣工に間に合わず、零式艦上戦闘機、99式艦上爆撃機、艦上爆撃機彗星、艦上攻撃機天山などが搭載された。
本艦が戦没した折りの搭載機数は艦戦が27機、艦偵が3機、艦爆が27機、艦攻が18機の計75機だったといわれている。」
ふうー、疲れた。数字に関してはこれ以外にもあります。理由は既に上の方が書かれている通り。新型機は大きいのでそれを積むことにすると機数が減ります。あ、補足すると、マリアナ時の「艦戦」は零戦52型、「艦偵」は彗星(2式艦偵ではないらしい)、「艦攻」は天山です。艦爆は彗星主体ですが、1航戦には99艦爆9機が所属していましたが、「大鳳」にそのうち何機が積まれていたのかは不明です。
itou
BB
>攻が18機の計75機だったといわれている。
こいつは、第一航空戦隊の定数を素直に3で割った結果を書いたんじゃない
かと思います(小生がそう思うだけであって絶対そうだと主張しませんが、
それ以外の根拠を見出せないでいます)。
小生の友人がこの件に関して以前調査したことがあって、細かい結果は忘
れてしまいましたが、戦闘詳報とか各種電報などから推測して、あ号作戦
開始当時の「大鳳」の搭載機数を割り出していた模様です。
結局航空母艦の搭載機数は、計画時のそれと実際に竣工したときの主力機
が異なり得ること、また所属飛行機隊や航空隊の定数など、あるいは実績
としての記録から「何機載せられる」という考察をせざるを得ない面、ま
た全機格納庫内に収容するのではなくて露天懸止する機もあるなど、必ず
しも「何機」と数字を確定できるものではないと思っております。
今泉 淳
変だなあと思って読み直して、やっと気がつきました。
今泉 淳
また、新型機は本当に大きいのでしょうか?九九艦爆と彗星はいい勝負、流星、天山もほとんど変わらず、烈風は翼が折りたためる計画ではありませんでしたっけ?
BUN
あれ、そうでしたっけ。職場にいるので確認できませんが、後で家で
見ておきます。んで、
>九九艦爆(なぜか出撃した記録が無い)など、
たしか、対潜哨戒用だった気が...
> 九九艦爆と彗星はいい勝負、流星、天山もほとんど変わらず、烈風は翼
> が折りたためる計画ではありませんでしたっけ?
折りたたみ機構のことをとりあえず置いておいて、翼を展長した状態で
議論すれば、99艦爆と彗星は随分違います。彗星は零戦といい勝負、99
艦爆と97艦攻が大体同じ位の大きさだった気がします。天山は97艦攻と
大体同じ位でしたね。流星はちょっと忘れました。烈風は...こいつは馬
鹿でかかった気がします。以前1/700で烈風を作ろうと思って寸法を見て
みたら99艦爆辺りを元にしないとできないくらいの大きさだったような
気がします。そうそう、彩雲は小さかったなあ。
んで、確かに折りたたみ機構がありますから、実際にはそれほど場所は
食わないって議論はあり得ますね。ただ、機種によってどこから折り畳
むかが違うし、結局それを元に格納庫内でどのように格納するかの場所
を決めるわけで、「確かに96艦戦に比べたら場所を食うよなあ」などと
も思います。(^_^;)
今泉 淳
3で割れない数字とは戦史叢書の「マリアナ海戦」に記載されている確か、6月15日付けの保有機数だったと思います。
また、上でitou氏が書かれている九六艦戦等を含んだ各機種18機ずつの数字というのは、確かに大鳳の計画数字ではありますが、大鳳の設計にかかわる艦の固有の計画数字というより、海軍航空本部が作成した空母の標準搭載機数が本来の出所なのではないでしょうか。未確認ですけれど・・・。
BUN
>月15日付けの保有機数だったと思います。」
ああ、そういうことですか。私は本々の「定数」を問題にしていたのです。
確か601空の定数は何かの文献で読んだ記憶もあって、例えば件の戦史叢書
にも出ていると思うし、淵田奥宮「機動部隊」にも出てくるはずの数字で、
例えば丸メカの「日本の空母」(だったと思う。「図解 日本の空母」って
同じものですよね?)の数字を見て「定数を3で割れば、確かにそうなるけど
なあ」と思った記憶があるもので。無論、6月15日時点における搭載機数は
きれいに3で割れるかどうかが別ですね。以前、友人と議論したときの記録
があるかもしれませんので、本件ちょっと調べてみます。
今泉 淳
それと搭載機数を考える上で、機体サイズや露天繋止の有無と並んで、補用機の問題もありますね。
itou
BUN
補用機ですが、根拠はないですが私見として、少なくともミッドウェーまでは主翼と胴体を分離した程度の形で補用機はある程度持っていたのではないかと思っています。ミッドウェー以降はそうした形が無くなり、全て完成品の形で搭載されるようになり、定数からも公式に補用機というものが消えていったのではないかと思っているのですが、どうでしょうか?
itou
>まれていたのかは不明です。
翔鶴に3機搭載されていた記録があるらしいので、常識的に考えれば3機ずつ
各艦に分乗というのが、一応合理的な推定ではあると思います。また、「六
〇一空戦闘詳報」を初めとする一次資料から、大鳳上の事故に関わった99艦
爆の数なども、考察の材料になるのではないかと思います。
>格納庫面積から言っても翔鶴や瑞鶴の方が搭載機は多そうな事を考えれば余
>計不自然な数字になりますね。
空母などのメカ関係の解説書には件の601空の定数を3で割った数字が良く出
てくるのですが、これはやや考察に欠けた面もあるのではないかと思ってい
るのです。まあ、601空がその定数を用意する気があって、それを3隻の空母
に載せないといけないわけで、さらに飛行機隊の編制の問題もあるから、あ
まり不均等にも載せられない、だから三等分というのならそれなりに分かる
考察ですが、そこまで考察して書いたような形跡を認めることができなかっ
た、というのが小生の見解です。一概に「三等分」を「いけない」とは言え
ないのですが、「その機数を載せるつもりがあった」以上のことは言えない
のではないかなあと思うのです。だからこそ、「これが搭載機数である」と
断定的に書かれていたりするのはちょっと抵抗あるし、「…といわれる」の
類の記述もやはり気になりますね。
さらに、601空が持っていた飛行機の実数、あるいは第一航空戦隊の各艦から
発進したり、あるいは戦闘や事故などで失われた機数を考慮した、「搭載実
績」をきちんと考慮した文献も記憶にはありません(歴史群像はどうだったっ
け?)。
んで、確か中沢メモだかなにかが出典だとおぼろげに記憶するのですが、大
鳳って、空母としては「中型」扱いだった気がします。そういう意味で、も
し601空の定数を三等分したり、あるいは第一航空戦隊が実際に所有していた
飛行機の三分の一(6月15日時点で、214機でしたっけ)を載せていたとしたら、
結構苦しかったのではないかなあと思います。露天繋止も併用しないといけ
ないといのは、やっぱり結構無理しているんじゃないかなあとも思うんです
が、どんなもんでしょう。
今泉 淳
また、露天搭載については無理をした運用、というより、新しく採用された搭載方式、と考えられないでしょうか。
この頃編成が進んでいた伊勢型から発進した彗星などは結局は大鳳などに着艦するのですから、戦闘での損耗が無い限り、露天搭載は折り込み済みのことだったのではないでしょうか。同時期に建造中の伊吹も露天搭載を前提としていたはずですし、帝国海軍はどこかの時期に空母での露天搭載を研究していたのではないかと思うのですが・・・。
BUN
>各艦に分乗というのが、一応合理的な推定ではあると思います
99艦爆に関しては、実際の出撃記録がない事もあって意味合いがわからなかったのですが、対潜哨戒が任務だったとすれば納得できますね。その前提にたてば「3等分」は十分に合理的な推論だと思います。
itou
小生が呈した問題提起とはやや方向性を異にしますが、とりあえず。
>空母への航空隊の分乗については、以前、レイテ海戦時の瑞鶴で、指定され
>た搭載空母から別の空母に「こっちの方がいい」と個人の意思で乗り移り、
>叱責されるものの黙認されるといった手記を読み、
神野「空母瑞鶴」(朝日ソノラマ)でしたっけね。他の本にも出ているか
もしれませんが。
>末期の混乱の中とは言え
>空地分離以後の搭載機と艦とのつながりの薄さを印象づけられました。
これは、元々海軍内に所轄意識のようなものがあって、固有の乗員や隊員、
あるいは機材に対して冷淡な態度をとってしまう面があって問題視されて
いたはずでしたが、それを考慮しても空地分離主義を採らざるを得なかっ
たというのが、小生の解釈です。同様の問題は、陸上の航空隊と特設飛行隊
との間にもあったとみています。が、
>マリアナ沖海戦でも同様の雰囲気が存在したのではないでしょうか。
ここまで言いきれるかどうかは分かりません。同様の雰囲気はあったかも
なかったかもしれないし、あったとしたも程度問題として捷号作戦の頃と
同等かどうかまでは分からないと思います(あ、否定しているんじゃない
ですので)。あと、あ号作戦と捷号作戦では、機動部隊における事前の準
備の慌しさが違いますし、一概に比較できない面もありますよね。
>また、露天搭載については無理をした運用、というより、新しく採用され
>た搭載方式、と考えられないでしょうか。
その研究に関する可能性は否定いたしませんが、断定はできない気がしま
す。ただ、艦載機(水上機)ってのは、大体において露天繋止だから、そう
意味で実績がなかったとは言えなかったのかもしれません。でも、元々は
格納庫にしまうことを前提にしていた空母において、編制上の都合から露
天繋止にせざるをえなかったわけですので、「無理して採用した」となら
ば言えるかもしれないですね(解釈上の問題ということですかね)。
>99艦爆に関しては、実際の出撃記録がない事もあって意味合いがわから
>なかったのですが、対潜哨戒が任務だったとすれば納得できますね。その
>前提にたてば「3等分」は十分に合理的な推論だと思います。
あと、早吸の捜索にも使われたと聞きます(友人から聞いたんですが)。
今泉 淳
大鳳の残された数少ない写真の中で空中から撮影したものがあったはずですが(確か、タウイタウイの泊地での撮影だったように思います。)甲板に飛行機がほとんど居ませんよね。既に601空は各空母に分乗していたはずなのですが、停泊中であれば訓練飛行中とは考えられず、やはり露天搭載は無かったのか、とふと考えてしまいました。そうすると、70機搭載はひょっとしたら怪しいのかもしれませんね。
BUN
(N)
>すが(確か、タウイタウイの泊地での撮影だったように思います。)甲板に
>飛行機がほとんど居ませんよね。既に601空は各空母に分乗していたはず
>なのですが、停泊中であれば訓練飛行中とは考えられず、やはり露天搭載は
>無かったのか、とふと考えてしまいました。そうすると、70機搭載はひょっ
>としたら怪しいのかもしれませんね。
>写真を見ると6機ほど確認出来ますね(大鳳)。うーむ 微妙な数字だ…
写真には確かに5機か6機が写っていますね。で、小生の友人の推測では、
タウイタウイ出撃時における大鳳の搭載機数の「下限」を69機としてお
り(推測過程は長ったらしいし、私が考察したわけでは必ずしもないの
でここには書きませんが)、要するにそこから5なり6引いた機数が格納個
内に少なくともあったのだろうとも思います。
今泉 淳
ちょっと訂正。
>これは、元々海軍内に所轄意識のようなものがあって、固有の乗員や隊員、
>あるいは機材に対して冷淡な態度をとってしまう面があって問題視されて
>いたはずでしたが、
「所轄観念」とか呼ばれていたはずです(「海軍航空概史」に載っていた
はず)。で、「固有の乗員や隊員、あるいは機材以外に対して」と書きた
かったのですが、手が滑りました。要するに、自艦や自隊の所属の飛行
機や隊員じゃないと、扱いが違ってしまう点は、既に問題視されていた
模様です。
今泉 淳
あるいは別の可能性として5月18日に1回だけ実施された出動訓練時の写真という可能性ですが、写真はどうみても停泊中のものなのでその可能性は低いと思います。
戦史叢書には、601空は5月5日にシンガポール方面の基地を撤収して7日までに1航戦各艦に分乗しているとあります。また6月13日までに事故による消耗が33機、51名となっていて、「2,3航戦は内地から出撃したため出撃時にはおおむね定数通り機材を補充されているが、601空はリンガ方面で訓練を実施した関係上十分に補充されず、爆戦を搭載されたのもその為と推察される」ともあります。
事故損耗の大部分はリンガ方面での訓練中に生じて、その補充として零戦21型が搭載されたととれる訳ですが、定数と6月15日付けの保有機の差を比べると、戦闘機と艦爆はほぼ定数通りなのに対して、艦攻は54機に対して44機と10機ほど減っています。これは想像なのですが、訓練時の損失に対して艦爆は爆戦で代用できたが艦攻はできなかった、その為601空の定数を艦攻の分だけ割り込んでいるとも考えられます。
それで何が言いたいのかというと、10機を3で割った分が少なくなっているとして、露天繋止5,6機というのはいい線じゃないかと思えるのです。
長い割に実のない文章だ、我ながら。
itou
BUN
> だから数字出しときましょうよ。
といいますか、入手可能か資料類から、タウイタウイ出撃直前における
大鳳の搭載機数の推定はできると思います。
今泉 淳
> 問に思っていたのですが、分解格納された補用機というのは全金属製単
> 葉機になってからも存在したのでしょうか?
当時の搭乗員の手記などをしつこく読んでもなかなかそういう記述は見え
てこないのですが、少なくとも飛龍乗り組みの板津兵曹の手記にはあった
気がしますが、それとても格納状態に関してはなんら情報を得られるよう
なものではなかったですね。ただ、私の印象としてはそう大きな手間をか
けなくても補用機によって新たな愛機が用意されたように感じます。
確か昭和8年の一万トン級空母の艤装方針だかなんだかに、補用機に関する
記述があったかのように記憶しておりますが、それにはそんなに分解をしな
い程度の状態での格納を前提にしてあった気がします(家に帰れば、資料あ
るので確認できますが)。
今泉 淳
は以下の通りです。
第二章 飛行機格納庫
三、予備機格納庫
(一) 予備機中三座攻撃機ヨリ小型ノ飛行機ハ脚部、尾翼、中央翼発動機及ビ
「プロペラ」ヲ装備シタル儘格納スルモノトス
(二) 予備機ノ繋止ハ常用機ニ準ズルモノトス但シ主翼ハ之ヲ除去シ別ニ格納
スルモノトス
この時代は複葉中心、双発艦攻やら複座艦戦なども想定していた時代ですので、
太平洋戦争当時とは違うことも念頭におくべきかと思います。あと曲者なのが
「予備機」と書いてあって「補用機」と書いていない点です。どうも概念的に
は「予備機」と「補用機」というのが違うらしいのですが、文章全体からその
違いなり定義などを見出すにはいたりませんでした。
あと、板津兵曹の手記ですが、丸別冊太平洋戦争証言シリーズ8「戦勝の日々」
の「真珠湾から印度洋へ-飛龍艦爆隊奮戦記」において、以下のような記述が
あります。なお、板津兵曹は、印度洋上で敵艦の攻撃中被弾、母艦に帰着した
ものの燃料が漏れていたためエンジンを絞った際の排気炎に引火、愛機は海中
投棄となり、新機に乗り換えています。
「母艦には定数のほか、予備の飛行機が各機種ごとに、普通三機づつ用意され
ていた。一機あるいは二機は組み立てられて、すぐにでも代替えができるよう
に準備され、残りは分解されたまま収納してある。」
一搭乗員の手記の記述に全面的に依存するのは危険なのでこれ以上の断定はで
きませんし、飛龍がそうであっても他の艦が同様であるかまでは分かりません
が、とりあえず参考までに。
今泉 淳