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第二次大戦中の日本にはドイツの戦闘オペラハウスみたいな 防空指揮所はあったんでしょうか? またあるとしたら、どれくらいの範囲の指揮能力、防空能力が あったのでしょうか? zoretu |
- 存在しました。
戦史叢書「本土防空作戦」381ページに東部軍管区を担当する第十戦闘飛行師団作戦室の簡単な見取り図が示してありますが、これによれば地上2階地下1階の構造物で、床面積の1/3程度が吹き抜けとなっており、その壁面に情報盤、吹き抜けの地階部分に警戒機乙表示板があり、バルコニー状の1階部分に師団長及び幕僚(師団と東部軍)とそのための地図、各飛行部隊への直通電話、高射師団作戦所、防空サイレン指示器、対空無線通信所などが設けられており、3階部分に軍司令官席がありました。
同382ページに情報盤図の概略が示されており、これによれば北は津軽海峡、南は紀伊半島、西は香川/岡山両県までがカバーされており、また警戒機乙表示盤は、北東部分で茨城県霞ヶ浦近辺、南西部分で静岡県全域がカバーされているものでした。
第十一、第十二戦闘飛行師団でも同様の作戦室を持っていたものと思われます。
ヒロじー
- 警戒機乙表示盤の説明がわかりにくかったので、こちらをご覧ください。
http://www.mapion.co.jp/c/f?el=139/33/48.518&scl=5000000&pnf=1&uc=1&grp=all&nl=35/29/44.265&size=500,500
概ねこのリンク先図の部分がカバーされていました。
なお、第十一戦闘飛行師団は中部軍管区の防空を、第十二戦闘飛行師団は西部軍管区の防空を担当していました。従って情報盤図、電波警戒機乙表示盤図も、その担当に沿ったものとなっていたと思われます。
ヒロじー
- ということは昔、本で読んだ(マリアナの七面鳥撃ちの結果から)「日本海軍には各種情報を集めて防空を行うという思想そのものがなかった」と言うのは間違いということなんですね。
ロックマン
- 海軍航空の本土防空並びに戦闘機隊運用については知識がありませんので、現実がどうであったかは私にはわかりませんが、陸海軍共に戦闘機による邀撃戦闘=防空という狭い捉え方は恐らくしていなかったのではないかと思います。
本土防空に関してのみ言いますと、大正十年の陸海軍航空任務分担協定の(二)において
空中ニ対スル帝国国土重要地点ノ直接防禦ハ主トシテ陸軍之ヲ担任シ防禦地点の情況ニ依リ海軍之ヲ分担担任ス(後略)
と定められており、これ以降本土の防空体制は主として陸軍の主導により進められていきます。
さてその陸軍の取り組みですが、大正十一年度の陸軍戦時編制に要地防衛部隊として防衛司令部、高射砲部隊や照空部隊と並んで防空監視隊の編成が計画されており、この時点で既に防空には対空監視と情報伝達が必要であることは確実に認識されていたと思われます。
ヒロじー
- > 海軍航空の本土防空並びに戦闘機隊運用
便乗ですが、海軍の本土防空指揮所として、横須賀鎮守府の地下かどこかに当時としては先進的な設備を持つ横須賀鎮守府管区防空指揮所が設けられたと聞きますが、それはどんなものだったのでしょうか。
また佐世保や呉や舞鶴といった他の鎮守府管区防空指揮所はどんなものだったのでしょうか。
T216
- だぁ、読み返し見たら激しく誤記というか勝手に造語してました(涙)
第十(第十一、第十二)戦闘飛行師団と書いていますが、「第十(第十一、十二)飛行師団」が正しいです、「戦闘」はつきません。
以上、訂正してお詫び申し上げます。
ヒロじー