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たびたびすいません。 瑞雲水偵についてお願いします。 瑞雲水偵の爆撃能力というのはなぜつけられたのでしょうか? 水偵の機能に他用途化のひとつの方向として爆撃能力を付加したのでしょうか?それとも水上機部隊に攻撃機を導入することで独立した戦力として使うつもりだったんでしょうか? んー、文章力ないな、つまり「おまけ」として爆撃能力をもっていたのでしょうか?それとも「爆撃機」だったんでしょうか? ぽち |
- 昭和11年の性能標準において、巡洋艦搭載の二座水上機には急降下爆撃能力が求められています。
そして、この性能標準に基づいて策定された昭和13年の性能標準案では巡洋艦搭載二座水上機は「爆撃機」と規定され、主要任務はまず「攻撃」で、次に「偵察」となっています。
この流れの中で試作されたのが十二試二座水偵で、その後継機である瑞雲も「爆撃機」だったと言えると思います。
なお、これらの水上爆撃機は当初、艦隊決戦時の制空権確保のために敵空母への先制攻撃(一回限り)に用いられる予定で、複数艦の搭載機を統一された指揮官の下で、可能な限り他の攻撃部隊(空母艦載機含む)と共同して敵に先制攻撃を加えることが想定されていたようです。
参考:学研歴史群像シリーズNo.38「最上型重巡」
T216
- 「性能標準」について補足すると、昭和十一年の「性能標準」の中で水上機の項目が翌十二年に正式な手続きで改正されて二五番搭載の急降下爆撃能力(ニ座)と二五番を搭載できる水平爆撃能力(三座)を要求しています。
爆撃機か、偵察機かと言えば開発する側から見れば主要な機能は急降下爆撃機ですが、九五式水偵を使用していた当時の艦隊でもやがて配備される新型の二座水偵を「水爆」と呼んでいたりしますから「今度のニ座水偵は爆撃機だ」という認識はあったようです。
BUN
- ありがとうございます。
巡洋艦の水偵は索敵のためだと思ってましたが攻撃にも使うつもりだったんですね。
最初の接敵のための偵察飛行のときも爆弾用意していってんでしょうか?
それとも索敵機が接敵してから爆弾下げて攻撃をかけたんでしょうか?
ぽち
- > 3.
昭和14年の「第二艦隊航空戦規定」の「5.攻撃要領」では水上機による攻撃手順は以下のように規定されています。
「攻撃を実施するには先ず捜索機隊を発進せしめたる後、適時攻撃隊を発進せしめるを例とし、攻撃圏内に確実に敵を発見し得るを予期せらるる限り、捜索隊の敵発見の報を待たず成るべく速やかに攻撃隊を発進せしめ極力先制攻撃を企図するを要す。
敵情の確度大なる場合は捜索隊を待たず攻撃隊をして独力索敵攻撃を行わしむることあり」
早い話が、普通は索敵機を出した後に爆装した攻撃隊を出すのが一般的で、索敵機を出さなくても確実に敵に接敵できると思われるときに限って索敵機を出さずにいきなり索敵攻撃隊を出す、ということのようです。
日本海軍では索敵機が爆装することは余りなかったようなので、この場合も索敵機は爆装しなかったのではないかと思います。
爆装すると運動性や航続時間に影響しますので、これが敵を発見する可能性を下げてしまうかもしれませんし。
T216
- なるほど。
爆弾下げて滞空時間短いのは問題ですね。
ということは巡洋艦の水偵は全機が同時に索敵に向かうんではなくて何機かは残って攻撃の準備してるんですね。
ぽち
- 巡洋艦の水上機が索敵に出るという前提をまず疑いましょう。
二座水偵は基本的に索敵には出ません。
索敵飛行という任務に関しては、三座水偵も空母から出る艦攻の予備機として存在しているわけです。
では、南雲機動部隊の索敵機はなぜ利根型の水上機を索敵に常用していたのか、昭和16年型編成の機動部隊は、それまでの空母部隊の編成運用とどこが変わっているのかというところを見て、考えてみる必要があると思いますよ。
まなかじ
- 瑞雲は実際に敵の魚雷艇や、輸送船への攻撃でそれなりの成果をあげていました。また、敵勢力下での強行偵察も視野に入れていたので主翼に20ミリ機関砲を装備していました。
秋月
- 甲飛11期出身の梶山治氏が「瑞雲飛翔」を出版しております。
詳細に記述しています。参考にしてください。
海鳥
- >巡洋艦の水上機が索敵に出るという前提をまず疑いましょう。
二座水偵は基本的に索敵には出ません。
索敵飛行という任務に関しては、三座水偵も空母から出る艦攻の予備機として存在しているわけです。
考えたこともなかった・・・艦攻が索敵任務を受け持つ、ということは知ってましたが「水上偵察機」だから偵察があたりまえと思ってました。
以前なにかの本で攻撃力のある艦攻を一機でも多く攻撃隊にまわすために水偵を索敵に使った、と読んだ記憶があるんですが間違いだったのですか?
ぽち
- >以前なにかの本で攻撃力のある艦攻を一機でも多く攻撃隊にまわすために水偵を索敵に使った、と読んだ記憶があるんですが間違いだったのですか?
それは、(十二試二座水偵の不採用で)水爆の確保ができなかった時期に関する記述ではないのでしょうか?
mikey
- >9
戦前の日本軍の艦隊構成では
第一艦隊>戦艦&空母
第二艦隊>重巡&空母
となっていました。
第二艦隊はその速度を生かして駆け回り、早期に敵艦隊を発見し、先制空襲を仕掛けて「敵空母」の飛行甲板を叩き、以降の航空優勢を確保するつもりでした。
第一艦隊の戦艦は搭載機を弾着観測に用います。
そして第一艦隊の空母は艦戦で艦隊上空の制空権を、艦攻で敵主力艦攻撃をしかけます。
第二艦隊の空母は艦攻を偵察用に若干数、残余の搭載主力は艦爆でした。そしてそれだけでは不足なので重巡の水偵も水爆として発進させて戦力を増強する腹積もりだったのです。
この為、戦闘機、急降下爆撃機、弾着観測機、近距離偵察機として使える二座水偵の九五式水上偵察機が、戦艦・重巡に搭載されます。
戦艦用の二座水偵は、つまりは防空戦闘・自衛空戦性能を持った観測機が欲しいので、零式水上観測機へと発展します。
重巡用の二座水偵は、つまりは先制攻撃に参加できる急降下爆撃機としての機能が重視され、十二試二座水偵の試作へと進みます(中島・愛知・川西による競作)ですがこの開発に失敗し、更に要求機能を発展進歩させた十四試二座水偵へと進みます。これが後の水上偵察機「瑞雲」です。
さて、重巡の水爆が得られなかった以上、第二艦隊は攻撃戦力に不足を来たします。結果、重巡の搭載している少数の三座水偵を偵察戦力に回し、空母の搭載している偵察用艦攻の一部を攻撃戦力側へと振り替えるわけです。
これが太平洋戦争開戦時の日本軍の艦隊航空戦力の内訳だったのです。
ですが重巡搭載機の過半は二座水偵ですし(上記以外にも各種の任務があり、三座水偵の率を増加させにくい)空母搭載機が偵察戦力の中心であるのは変わらなかったのです。
SUDO