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艦上爆撃機「彗星」、特に、空冷エンジンの金星62型を搭載した 三三型(と四三型)による作戦・戦闘に関して質問します。 沖縄戦では、特攻作戦が主体になっていたので、空冷エンジン型 の「彗星」も、通常の急降下爆撃(機動部隊攻撃&艦船攻撃)とと もに、特攻作戦にも多数が投入されたということが、数多くの本に 記載されていますが、沖縄戦などで、空冷「彗星」が通常の急降下 爆撃隊として出撃した例は、本当にあったのでしょうか。そして、 通常の爆撃による戦果は、実際にあったのでしょうか。戦記関係の 本を読むと、例えば、岩井勉氏の著書「空母零戦隊」では、菊水1 号作戦初日の1945年4月6日の午前中に出撃した210 空の「彗星」 部隊13機は、「これは特攻隊ではない」と書いてありましたし、ま た、沖縄戦以降の601 空の攻撃第1飛行隊関連のことを書いた本を 読むと、1945年4月3日、4月6日の米軍高速空母機動部隊に対す る攻撃は、いちおう、通常攻撃であり、また、同年8月9日の釜石 沖の米英両軍の高速空母機動部隊に対する攻撃(「世界の傑作機」 誌の「海軍艦上爆撃機『彗星』」特集号にも、渡辺洋二氏による特 集ページが掲載されていました)も、いちおう、通常攻撃というこ とが書いてありました。また、同年3月の九州沖航空戦でも、701 空の「彗星」(三三型)による米軍高速空母機動部隊に対する攻撃 では、通常攻撃による戦果もあったというような記述も読んだこと がありました。ただ、これらの戦闘から生還した(現在も健在の) 搭乗員の証言によれば、「この時の我々の部隊の攻撃方法は通常攻 撃であった」というものでも、未帰還となった搭乗員らは、後日、 「神風特別攻撃隊○○部隊○○隊」として連合艦隊司令長官によっ て全軍に布告された例が多かったそうですが、これは、どういうこ となんでしょうか。なぜ、事後に特攻隊と認定された場合も多かっ たのでしょうか。どうか、ご回答を、よろしくお願いいたします。 知床のヒグマ 知床のヒグマ |
- ●質問の補足
岩井勉氏の著書である「空母零戦隊」の中の菊水1号作戦発動の日
(1945年4月6日)についての章に、
「この日の午前中に出撃したのは、(中略)210 空・『彗星』13機
野村浩三大尉指揮(これは特攻隊ではない)。この彗星爆撃隊を援護
するために(後略)」
という記述が書いてありましたが、特攻作戦関連の本などの資料を読
むと、この210 空の「彗星」のうち、児玉光雄大尉・江種上飛曹搭乗
機以下7機が未帰還となり、それらの未帰還機の全搭乗員は、後日、
『神風特別攻撃隊第3御盾隊210 空部隊彗星隊』として連合艦隊司令
長官により全軍に布告されたとあります。
このように、沖縄戦などで、空冷型の「彗星」が米軍空母機動部隊
などに対して攻撃を行った際には、生還した搭乗員が、「攻撃方法は
通常攻撃であった」と証言しているにも関わらず、「我、敵艦に突入
・体当たりを敢行す」という無電を発しないまま未帰還となったもの
も含め、未帰還機全機が神風特別攻撃隊として認定され、全軍に布告
(士官は2階級特進、下士官は少尉に昇進)されることになった例が
数多くありますが、なぜ、このような形になることが多かったのかと
いうことについての情報提供を、心からお待ちしています。
知床のヒグマ
- 詳細は知りませんが、未帰還機を特攻として報告する事によって、通常一階級進級のところが二階級特進等になり、遺族の方に支払われる恩給(年金?)が増えます。
部隊の、戦死者に対する温情とでもいうものじゃないでしょうか?
源五郎
- >1945年4月6日の210空彗星隊
戦闘詳報によると、引き返した4機以外「全機敵KDBに突入せるものと推定」「特攻攻撃をなせるものと推定」とあります。なぜこのような判断なのかは記述が無くわかりません。ちなみに出撃した彗星は9機が三三型、2機が一二型と思われます。
川崎まなぶ
- 釜石沖だったか
彗星43型で敵艦隊に通常攻撃をかけられた方によると
通常攻撃での出撃でも「空母の場合は特攻をかける」
という申し合わせがあったそうですね。
Kleist
- >川崎まなぶさん、他へ
上にも書きましたが、1945年4月6日の210 空部隊彗星爆撃隊ですが、
岩井勉氏の著書などには、出撃機数は13機と書いてあるので、そちらの方
が正しいのではないかと思われますが、いかがでしょうか。
あと、1945年3月18日〜20日にかけての九州沖航空戦に出撃した701 空
の彗星爆撃隊(三三型装備の攻撃第103 &第105飛行隊 )や、同年4月3
日と6日の沖縄沖の米軍高速空母機動部隊に対する攻撃に出撃した601 空
の攻撃第1飛行隊所属の彗星爆撃隊(三三型)、それに、同年8月9日の
金華山沖〜釜石沖の米英両軍の高速空母機動豚隊に対しての攻撃に出撃し
た、同じく 601 空の攻撃第1飛行隊所属の彗星爆撃隊(三三型と四三型の
混成)も、いちおう、通常攻撃として出撃(生還した生存者が、「攻撃は
通常攻撃であった」とか、「戦艦に直撃弾を命中させた」などと証言して
いて、実際に、爆撃で爆弾が命中して被害があった例が、九州沖航空戦な
どでは、日本軍側の戦闘詳報でも、米軍側の各種資料でも明らかになって
いるものもあります)したということですが、これらの場合でも、なぜ、
未帰還機が、後日、神風特別攻撃隊として連合艦隊司令長官によって全軍
に布告されたのかが分からないのです(九州沖航空戦の701 空の彗星爆撃
隊の場合は、「菊水部隊彗星隊」、4月3日と6日の601 空の攻撃第1飛
行隊に所属の彗星爆撃隊の場合は、「第3御盾隊601 空部隊攻撃第1飛行隊」、8月9日の601 空の攻撃第1飛行隊に所属の彗星爆撃隊の場合は、「第4御盾隊(彗星隊)」という名称です)。これらの場合は、後日、未
帰還機を特攻隊として認定した形になるのでしょうか。同じようなケース
として、九州沖航空戦での第762 空所属の陸上爆撃機「銀河」の爆撃隊の
未帰還機(「菊水部隊銀河隊」として全軍に布告)とか、1945年7月25日
に関東沖、8月9日に金華山〜釜石沖の米英両軍の高速空母機動部隊への
攻撃を行った第752 空攻撃第5飛行隊の艦上攻撃機「流星改」の爆撃隊の
未帰還機が特攻隊に認定されていますが、これも、後日に特攻隊として認
定されたケースになるんでしょうか(1945年7月25日と8月9日の「流星改」の爆撃隊の出撃は、渡辺洋二氏の『重い飛行機雲』の「流星の名の如く」の章には、「通常攻撃でありながら未帰月還機が多かったために、後日、『第4御盾隊流星隊』として全軍に布告され、8月13日の出撃機(全
機未帰還)と終戦の日の8月15日の出撃機(2機が出撃したものの、1機
は故障で木更津基地に引き返し、もう1機は未帰還)については、最初から、『第4御盾隊流星隊』として命名されてから出撃した」ということが
書いてありました)。なお、「世界の傑作機」誌の「海軍艦上爆撃機『彗
星』」特集号の渡辺洋二氏による特集記事「米軍機動部隊へ最後の攻撃」
には、1945年8月9日の金華山沖〜釜石沖の米英両軍の高速空母機動部隊
に対する攻撃に参加した601 空攻撃第1飛行隊所属の「彗星」爆撃隊の搭
乗員の生き残りの一人である下士官の話も書かれていますが、その下士官は、1945年4月6日の菊水1号作戦初日の沖縄沖の米軍高速空母機動部隊
に対する攻撃にも参加(同じく601 空攻撃第1飛行隊所属の「彗星」爆撃
隊の搭乗員としてです)していて、その日は、戦果として、戦艦に直撃弾
を命中させたことを報告したことが書いてありました。
以上、改めまして、よろしくお願いいたします。
知床のヒグマ
- >川崎まなぶさんへ
1945年4月6日の210 空部隊彗星爆撃隊ですが、野村浩三大尉指揮で
13機が出撃して7機が未帰還(この7機が、後日、特攻隊として認定)
となったので、帰還したのは6機ということになるんじゃないかと思い
ますが、いかがなものなんでしょうか。
知床のヒグマ
- >7の補足
当然ながら、指揮官の野村浩三大尉搭乗機は、攻撃後に第1国分基地に
帰還したようですね。
知床のヒグマ
- >1945年4月6日の210 空部隊彗星爆撃隊ですが、野村浩三大尉指揮で13機
13機というのは延べの出撃数です。1020に出撃したのは彗星11機で4機が引き返し、他(7機)は「全機敵KDBに突入せるものと推定」とあります。
引き返した4機のうち2機は1305に別目標へ再出撃、1機はまた引き返し、もう1機は敵を見ず種子島へ不時着した、とあります。
いずれも210空戦闘詳報(アテネ書房)より。
川崎まなぶ
- 答えを持ち合わせてはいないのですが、九州沖の場合には「艦爆は特攻」という用兵が以前から決まっていました。
そうした状況下でも仰るように通常攻撃がなされていたわけですが、五航艦長官は「彗星の熟練搭乗員は命中弾を加えて再出撃するが、これを一般に適用すると必中を期せなくなる。」とあくまでも特攻に拘っていたようです。その場合、「特攻」と「通常攻撃」で未帰還の線引きが上級司令部としてはっきり下せたのか、とも考えられます。2番で書かれた事情もあるのではないでしょうか?
>601 空の攻撃第1飛行隊所属の彗星爆撃隊
は、同時期に601空の攻3に所属された松永氏によれば、(三三型の)一番機、三番機は必中攻撃、(四三型の)二番機、四番機は特攻という命令が下っていたそうです。仮に、こうした命令があったとしても一番機が突入した場合には「特攻扱い」になるのでは、と考えます。
tackow
- >tackowさんへ
そういえば、松永榮元中尉の著書「大空の墓標〜最後の彗星爆撃隊」に
よれば、攻撃第3飛行隊は、沖縄戦当時は、252 空に所属し、終戦直前の
7月に601 空に編入されたわけですが、601 空に編入された直後に、千葉
県茂原市の茂原基地から愛知県碧南市の明治基地に進出し、さらに、7月
下旬には、同県豊田市の挙母基地に移動して終戦を迎えていますよね。
それで、この攻撃第3飛行隊ですが、終戦の2日前の8月13日に、関東
東方沖の米英両軍の高速空母機動部隊に対する攻撃命令を受けましたが、
松永氏によれば、攻撃方法は、「1番機と3番機は、複座の三三型なので
急降下必中爆撃。2番機と4番機は、単座の四三型なので体当たり特攻攻
撃を行う」とあり、また、「攻撃後の1番機と3番機は、関東地方の基地
に帰投すべし」ということが書いてありました。ただ、この時は、「目標
付近の雲高が低く、急降下爆撃不可能」という情報が入ってきたために、
1番機(山田良彦大尉&甲本中尉搭乗の三三型)の離陸直後に出撃中止命
令が出され、1番機(山田良彦大尉&甲本中尉搭乗の三三型)も、直後に
爆弾を三河湾に投棄して挙母基地に引き返してきたわけですがね(結局、
松永中尉&都築飛曹長搭乗の三三型は、爆弾を搭載するための整備員が自
機に来るのが遅くなってしまい、その間に出撃中止命令が出たために、離
陸することができませんでした)。
で、さらに質問ですが、仮に、この日に出撃して、関東東方沖の敵高速
空母機動部隊に対して攻撃を行った場合、命令に従って、1番機と3番機(三三型)は急降下必中爆撃を行ったとして、挙母基地で積み込んだ燃料
で、関東地区の基地に帰ることはできたのでしょうか。仮に、可能性があ
るとしても、どの辺りの基地になる可能性があったのでしょうか(確か、
松永氏の著書によれば、この時に積み込んだ燃料は、関東地方の基地まで
はギリギリの分の燃料であった」というように書いてありました)。
知床のヒグマ
- >川崎まなぶさん&tackowさんへ
もしも、よろしければ、例のアテネ書房の本の中の601 空攻撃第1飛行隊の戦闘詳報の1945年4月3日と4月6日の箇所についても、どのような記述
になっているのかを教えて下さいませんでしょうか。その上で、例の「世界の傑作機」誌の「海軍艦上爆撃機『彗星』」特集号の中の渡辺洋二氏による
「米機動部隊へ最後の攻撃」の特集ページに書いてあった、1945年4月6日
の菊水1号作戦の初日に、沖縄方面の米軍の高速空母機動部隊に対する攻撃
と、同年8月9日の金華山沖〜釜石沖の米英両軍の高速空母機動部隊に対する攻撃に出撃した601 空攻撃第1飛行隊の空冷「彗星」の搭乗員で、4月6
日の攻撃では、戦艦に直撃弾を命中させたことを戦果として報告した搭乗員
の氏名を、アテネ書房の例の本と「世界の傑作機」誌とを合わせて照合して
紹介して下さいませんでしょうか(アテネ書房の例の本の「601 空攻撃第1
飛行隊の戦闘詳報」の1945年4月6日のページに、その例の搭乗員による戦果報告が掲載されているのかについても教えて下さると幸いです)。以上の
ことにつきまして、改めて、よろしくお願いいたします。
知床のヒグマ
- アテネ書房の本には四月三日の記録は掲載されていません。六日に関しては川崎さんが書かれている通りで、戦果は特に記録されていません。
世界の傑作機「彗星」に掲載されている渡辺氏の記事中には「4月6日の攻撃では、戦艦に直撃弾を命中させたことを戦果として報告した搭乗員」は書かれていないと思うのですが・・その記事では「必中攻撃でも空母に対しては体当たり」と書かれていますが、沖縄戦でも同様なことが指示されていたようです。これも、通常攻撃で出撃→未帰還で特攻に認定、の傍証となると思います。
tackow
- >tackowさんへ
でも、「世界の傑作機」誌の例の渡辺洋二氏の特集記事には、確か、1945
年4月6日の沖縄沖の米軍高速空母機動部隊への攻撃と、同年8月9日の金
華山沖〜釜石沖の米英両軍の高速空母機動部隊への攻撃の双方に出撃して、
無事に生還した601 空攻撃第1飛行隊所属の空冷「彗星」の搭乗員であった
下士官の名前が出ていて、「4月6日の出撃では、戦艦に直撃弾を命中させ
たことを報告した」ということが書いてあったはずです(私も、立ち読みが
中心なので、うろ覚え的なものなんですが)。いちおう、私も、バックナン
バーが置いてある書店に行って、改めて、内容を確認しておくことにします
ので、貴殿の方でも、「世界の傑作機」誌の例の特集ページの文章を、改め
て確認しておいて下さいませんでしょうか。よろしくお願いいたします。
知床のヒグマ
- >tackowさん、他へ
昨日、「世界の傑作機」誌の「海軍艦上爆撃機『彗星』」特集号を買って、例の渡辺洋二氏の特集記事(正式なタイトルは「米艦隊への最後の攻
撃」)を読みました。1945年4月6日の沖縄沖の米軍の高速空母機動部隊
に対する攻撃と、同年8月9日の金華山沖〜釜石沖の米英両軍の高速空母
機動部隊に対する攻撃の両方に参加した601 空攻撃第1飛行隊所属の空冷
「彗星」の搭乗員の名前は、南喜市1飛曹となっていました。本文には、
「南喜市1飛曹は丙飛予科練出身で操縦技量が高く、(鹿児島県)国分基
地へ第1次進出して、4月6日の(沖縄沖の米軍の高速空母機動部隊に対
する)攻撃では、戦艦への直撃弾を報じた」と書いてありました。
ちなみに、8月9日の金華山沖〜釜石沖の米英両軍の高速空母機動部隊
に対する攻撃には、南1飛曹は、近藤運1飛曹とペアを組んで、2回も出
撃しています。最初の出撃の際には、彗星43型・601 −34号機で出撃した
ものの、洋上上空に出た直後に、機首部から油が漏れ出したために進撃を
断念して百里原基地に引き返し、その後、エンジンのトラブルで引き返し
た布家好雄1飛曹・林山次郎2飛曹ペアの空冷「彗星」&広島忠夫1飛曹
の彗星43型(広島1飛曹搭乗機のみは彗星43型の単座型)の3機にて第4
小隊を編成して再出撃しました。南1飛曹・近藤運1飛曹ペアは、機首部
から油が漏れ出した彗星43型・601 −34号機から、別の空冷「彗星」(33
型か?)に乗り換えての出撃となったものの、広島1飛曹搭乗機は、故障
を修理した上で、最初の搭乗機と同一の機体での出撃となりました。しか
し、目標付近の海域に到達して巡洋艦部隊に対して降爆(急降下爆撃)を
行った際には、1度目の降爆では爆弾が投下されず、数度の爆弾投下操作
を繰り返して爆弾を投下させることができたものの、爆弾は目標に命中せ
ずに海面に落下して炸裂し、目標付近の海域を離脱後、今度は、F6F−
5Nヘルキャット夜間戦闘機2機に襲われましたが、これを何とか振り切
って、夜7時30分頃に、仙台の南にある増田陸軍飛行場に帰還しました。
その際、プロペラブレードにF6F−5Nヘルキャット夜間戦闘機12.7mm
機銃弾1発が命中したために、微振動が生じながらの帰投飛行となったと
のことです。その後、南1飛曹・近藤運1飛曹ペアの空冷「彗星」は、エ
ンジントラブルで先に増田陸軍飛行場に不時着陸していた布家1飛曹・林
2飛曹ペアの空冷「彗星」とともに、百里原基地に帰還したとのことです
(広島1飛曹搭乗の彗星43型は、空母ボン・ノム・リチャードに搭載のV
F[N]−91所属のスタイアズ少尉搭乗のF6F−5Nによって撃墜され
たために未帰還となりました)。
以上、「世界の傑作機」誌の例の特集記事によって、4月6日と8月9
日の攻撃の双方に出撃した601 空攻撃第1飛行隊所属の空冷「彗星」の搭
乗員の氏名が、南喜市1飛曹であることが判明されましたが、601 空攻撃
第1飛行隊の4月6日の戦闘詳報を掲載した例のアテネ書房の本に、この
南1飛曹が報告した戦果(戦艦への直撃弾)に関するものは記載されてい
るのでしょうか。まあ、実際には、せいぜい、駆逐艦に爆弾を命中させた
というのを、戦艦への直撃弾と誇張して報告した可能性もありますが、こ
のことにつきまして、改めて、よろしくお願いいたします。
知床のヒグマ