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3096 護衛空母では終戦までFM−2が運用されていたそうですが、大戦後半(昭和19年以降)の戦記本を読んでいても、F6FやF4Uと交戦した話は沢山出てきますが、FM−2(F4F)と交戦した話は殆ど出てきません。何故なんでしょうか。(日本のパイロットにはF6Fとの区別が付かなかったとか、後方での哨戒が主任務で、交戦する機会が非常に限られていたとか)
NX

  1.  護衛空母が最前線で交戦する機会はやはりそれほど多くは無かったのが最大の要因であろうとは思いますが、もうひとつとして、護衛空母搭載戦闘機は空襲に対する迎撃任務が主であり、日本本土への空襲等の攻撃的任務には、あまり付いていないのです。航空撃滅戦に勝利した後の対地支援等には活躍していますが、この場合は日本側の戦闘機は全滅した後ですから交戦報告は少なくなります。
     また艦隊戦では、護衛空母機が相手をしたものの多くは特攻機だったのです。交戦を報告できる人は居ないという事です。

    SUDO

  2.  「第二次大戦のワイルドキャットエース」を読めば、比島戦から沖縄戦にかけて、護衛空母のFM-2がかなりの戦果を挙げているのが解ります(終戦までに合計400機以上の日本軍機を撃墜)。

     日本側で当時FM-2(F4F)と交戦した話が余り出ないのは、SUDO閣下の言われる通り、CVEの飛行隊が日本本土空襲に参加していないことや、戦争後半における艦隊防空任務の相手の大半が特攻機であった事によるでしょう。
    大塚好古

  3. 回答ありがとうございます。
    しかし比島戦や沖縄戦において、特攻機には制空隊や直掩隊がついていたわけですから、交戦した記録や話が残っていても不思議ではない筈です。
    「零戦は開戦当初P−40やF4Fを圧倒したが、2000馬力級のF4U、F6Fが登場すると抗し難くなった。」という物語の影響かなと考えたりもするのですが、どうなのでしょうか。
    NX

  4. >3
     ですから、交戦報告も無い訳ではないと思います。
     ですが、F6Fの撃墜戦果は合計約5,000機であり、FM-2が400機ならば、その戦果報告量は12.5倍もの開きがあることになります。他にF4Uもあるのですから、日本軍攻撃隊が出会う戦闘機のうちF4F/FMの割合は10%も無かったという事になるでしょう。

     余談、最初の神風はスプレイグ提督の護衛空母に突入し、直援機は敵機と交戦撃墜していますが、この相手はF4F/FMであるのですが、報告には特にどのような機種であったとは記されてません。

    SUDO

  5. 最初の神風で、直掩隊の西沢広義飛曹長は「F6Fを二機を撃墜した」ことになってることが多いですが、相手はF4F/FMだったのでしょうか。
    NX

  6. >5
     あの方面にF6Fを搭載した母艦はおらず。タフィ戦隊の各空母が乗せていたのはF4F/FMです。
     F6Fがあの空域に飛んでいた可能性は絶無ではないと思いますが、ほぼ可能性としてはゼロに近いと思います。
     よって日本側の報告にあるF6Fの何割かはF4FやFMである可能性も否定できないと思います(戦場で誤認はつきもので、F4FとF6Fを見分けるのはかなり大変でしょう)
    SUDO

  7. >5

     レイテ戦の際には、タフィ1所属空母のうちサンガモン級の3隻がF6F(計65機)を搭載していますが、当時タフィ1はタフィ2/3とはかなり離れた位置であるミンダナオ島東岸水域にあった事や、また米側の戦記に「敷島隊が来襲した際、タフィ3上空にあったのは少数のワイルドキャットのみであった」と書かれている事から見て、F6Fが在空していた可能性は無いと思います。
    大塚好古


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