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はじめまして。大王と申します。以前読んだ本に 「ラバウル(だったと思います)の末期、海軍は飛ばせる機体がなくなったので撤退した陸軍が残していった100式司偵の残骸数機分を寄せ集めて2〜3機でっちあげ、爆装し米軍の艦船を 攻撃して戦果を上げた」 という旨の記述があったのを記憶しています。質問ですが、 「そもそも残骸の壊れ具合は不明ですが、部品取り程度ならともかく、飛ばせる状態にできる程の設備、技術が最前線にあったのでしょうか。いわゆる最前線にはどの程度の修理能力があった 思えばよいのでしょう?。」 いかんせん10年近く前に読んだ本なので記憶があいまいで、出展も憶えておらず恐縮です。まるで雑想ノートのような話(創作では無く実話でしょうが)ですが(笑)。よろしくご指導の程 お願い申し上げます。 大王 |
- 碇義朗・ヘンリー境田共著「最後のゼロファイター」光人社に記されているようですが、その一部が碇義朗著「新司偵」光人社にもされています。要約すると残骸から百式司偵2型を一機再生して終戦まで連絡・偵察飛行に活躍し、終戦後はオーストラリア軍に引き渡されたそうです。
ささき
- おっしゃるような経緯でここで再生された百式司偵は1機です。豪軍が接収時に記録した同機の製造番号もメモしていたのですが、ちょっと、今、データの整理がつかなくなっていて恐縮です。ラバウル残置の陸軍部隊ではほかに一式戦闘機1機もたしか再生していたはず。それから有名なところでは、数機再生された零戦があり、この1機は不時着水していた海中から引き上げられて、今日本にあります。
前にも「クエゼリンのような最前線にどれほどの施設が」という質問がここでありましたが、マーシャルやラバウルは本来南東方面の補給・補修の一大センターとして、シンガポール、スラバヤ、マニラ、パラオ、サイパンなどとともに特設航空廠が置かれていた要地なのです。
そこにどの程度の能力が、といえば、例えば廃用機をバラして他機の補修用の部品取りをし、また組上げることは、全盛期には本来の能力として当然のものとしてありました。ラバウルの海軍航空隊は19年のはじめにトラックへ下がりますが、多くの施設と人員の相当数がそこに残されたままになっています。これが活用されたのです。
片
- ↑ああ、えーと、陸海軍がごっちゃになっちゃいましたね。
片
- ささき様、片様、ご回答有難う御座いました。碇義朗著「新司偵」光人社、読んでみます。>「廃用機をバラして他機の補修用の部品取りをし、また組上げることは、全盛期には本来の能力として当然のもの」。お〜!これは実は凄い事なのではないでしょうか?現地の技術員はさぞかし苦労が多かったでしょうね。有難う御座いました。
大王
- 内地の航空廠では飛行機の製造そのものを行っておりましたし、あるいは一定時間使用された機体の完全分解整備も行っていました。それも1機2機といった単位でではなく、そうした再組み立て機のラインがあったほどです。零戦の主翼は前部胴体と作り付けになっていて分離不可能、とよくいわれますが、その主翼だけの全交換も航空廠で行われていました。
そうしたデポの外地版(当然設備や業務内容に差はありますが)が各地に置かれていた、ということです。要するにラバウルには重整備の行える工場があったのです。
片
- 若輩者ながら、私も一言
日本文華社 から出版された「ラバウル最後の一機」もお勧めします。
著者は百式司偵の再生に携わった白根雄三氏、ラバウルに蔓延していたマラリアの
薬をトラックまで取りに行く必死の作戦のため、なんとしても再生したとの事。
終戦に際し、海軍の再生した零戦3機(型式は不明)艦攻1機(故障)と共に
連合軍に引き渡したとの事です。
はにまる
- 世界の傑作機「100式司令部偵察機」にもフィリピンで残骸を集めて員数外の3型をデッチあげて兵員を7人収容してきて、そのあと立川まで仕官などを4人乗せてきた、というインタビュー記事が載っています。
ところで質問の爆装した百偵というのは存在したのでしょうか。特攻機かとも思ったのですが、生き残って白く塗られて緑十字のマークをつけて豪軍に引き渡されたのなら特攻機ではないようですし。
いっちょかみ
- ラバウルの再生司偵は一機だけで、これで爆装攻撃したという話は知りません。海軍の再生艦攻が米軍の虚を衝いて艦船攻撃をやったという話を聞いたような記憶があるのですが、そうだとすると話が混同したのかも知れません。
なお碇義朗氏の「新司偵」には、昭和19年11月に「タ弾」を搭載した第四独立飛行隊の百式司偵3機が硫黄島から発進し、サイパン/テニアンの米軍飛行場を攻撃した逸話が紹介されています。攻撃隊長の池田少佐はエンジン不調のため帰還を断念し、自発的に体当たりを行ったとされています…。
ささき