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2645 「発想の航空史」と言う本の中に、日本はWW2前にプロペラの可変ピッチ角を変える部品を研磨する工作機械をアメリカに売ってもらえなかった・・・と有るので疑問に思ったのですが、日本とアメリカのプロペラ技術はどのくらい違ったのでしょうか、発動機ならば解るし調べられるのですがプロペラとなるとさっぱり解りません、教えていただければ幸いです。
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  1. 多分、アメリカの対日禁輸措置とハミルトン式定速可変ピッチプロペラのライセンスがすんなりと購入できなかった事実とを混同して書かれているのでしょう。
    ハミルトン式の製造販売権は最初中島飛行機が取得し、地上二段調整式のプロペラをブレードの仕上げのみの加工を行いつつノックダウン的に生産。
    昭和八年、その権利と諸設備を全て住友軽金属が購入。
    当時の海軍航空本部技術部長山本五十六本人の指導下で「飛行機用金属プロペラ製作統一に関する覚書」によって陸海軍向けのプロペラ一貫生産を開始。
    昭和十年、可変ピッチプロペラの製造販売権を三井物産の仲介で取得。
    しかし、この際、定速可変ピッチプロペラは米政府が拒否。
    将来許可があった場合の優先譲渡を約して中断。
    昭和十三年に許可が下り、優先譲渡契約により定速可変ピッチプロペラ生産開始。

    ということでハミルトンのライセンスは日米関係の悪化前に取得されています。
    また米政府が新型プロペラのライセンス供与を拒み続けた場合は、住友軽金属側で自主開発によって実現の見通しがあり、同時にVDM式プロペラを次世代プロペラとして採用、量産に入る体勢にありました。米政府もこうした日本側の動きを見て許可したのではないかと思います。

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  2. ハミルトンとの可変節ペラの製造権契後ほどない昭和9年6月に住友と海軍の技術者が渡米、10月まで製造技術の指導を受けております。その後、機械製作会社を回って所要機械を買い付け12月には帰国。翌1月より工場建設をはじめ、10月には最初の国産可変節ペラを完成。この流れを見る限り、中途におそれほど大きな障害はなかったように思われます。
    またハミルトン定速ペラの量産も、その比較的早い時期の関係もあって、最初の装備機である零戦の生産に何の支障も来たしておりません。

    むしろ、14年3月には特許実施権を取得しているはずのVDM可変節ペラの量産が18年にまでずれ込んでいることの方が、問題が大きかったようです。例えば、プロペラの生産が間に合わぬため、新型の一式陸攻G4M2がラバウル方面への戦闘に参加できなくなってしまっています。


  3. 終戦時に住友からハミルトンに戦争中のプロペラ生産についての特許使用料について問い合わせた逸話(1ドル?)にはソースはあるのでしょうか?
    Navy

  4. 質問の話、これは日本がライセンスを買ったプロペラではなくて、その後に輸入したDC4に装着されていたフルフェザリング出来る新機構のぺラの話ではないかと思います。当時の技術関係の方の話では「カムの化け物。あれは日本では造れなかった」(私の聞き書き)との事。米国製工作機械が購入できないのは主に時期の問題です。カム類の削り出しは一般に高い技術が必要ですので当時の日本には苦しい分野だったことでしょう。
    BUN


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