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こんにちはWW2イタリア機の質問です。 C.200 → C.202 G.50 → G.55 ってデサインや配備時期はもちろん最初の設計コンセプトや現れた問題点、その後の経過が良く似てますが、これは日本の96艦戦:97戦、月光:屠竜みたいな 組織の非効率による二重開発と考えて良いのでしょうか? ケンゴ |
- イタリア機の上記の例ですが、これはそれぞれ後者は前者のエンジン換装型です。
例えばC200は空冷の1000馬力級エンジン(もっと弱かったかも)だったのに対し、C202は、C200の機体に若干の改装を加えたものに、ドイツから輸入(ライセンス生産)した液冷の1200馬力級エンジンを取り付けたものです。
というわけでデザインが似ているのは当たり前で、また二重開発ではなく(二重開発ならそもそも製作会社は同じにならない)、前者の機体ができてすぐに新型エンジンをドイツから入手したために、そのエンジンを積んだ性能向上型を(戦局の都合もあり)早期投入した結果このようになったと考えるべきでしょう。
これが私の私見ですが、どうでしょう?
zono
- MC.200 と G.50、MC.202(205?) と G.55 が似ているという事でしょう。レジアーネの Re.2000 系も入れると三本立てですね。
似たような機体を同時期に別のメーカーで作る例は多いですが、イタリアの場合は「エンジンが同じ」という点が際立っています。察するにメーカー間での生産移管がうまく行かず、機種統一に踏み切れなかったのではないでしょうか。
ささき
- うーん
とりあえず、G50とMC200は1936年にイタリア空軍が出したR計画の要求仕様に従って作られた戦闘機です。同一仕様に従っている戦闘機ですからクラス的に重なるのは当然といわねばなりません。
R計画戦闘機はイタリア中の航空機メーカーが参加したといっていいほど百花繚乱な競作でしたが、本命はMC200なんですよ。公平に見て競作参加機のうちで最優秀機でしたから。
でも、こいつはちょっと生産開始まで手間取りまして、実戦部隊への配備は1940年までかかってしまっています。
そこへいくとG50はR計画戦闘機のなかではもっとも早く開発が進んでいまして、1938年には配備開始です。CR42よりも早く、CR32と共にスペイン内乱に参加できたのです。
実質的に九八式(G50)と零式(MC200)という差があることを忘れてはいけません。
G50より優れた素質を持った競作参加機もあったのですが、G50より早く生産に入れる機体はなかったというところが採用に大きく作用しているでしょう。
事後経過には少々違いがありますが、F6FとF4Uの関係に似たところがあります。
さて次のDB601系ですが、これはほぼMC202で一本ではありませんか?
Re2001が少数生産されていますが、これもMC202よりもやや開発が先行していたこと、イタリア空軍が高速戦闘機を一日でも早くと焦っていたことの賜物であって、本命はあくまでMC202です。
フィアットのDB601系であるG50V(G51)はMC202より遅れたので生産には入れませんでした。
DB605系、いわゆる「セリエ・チンクェ」ですが
これの本命は実はG55です
しかし、G55が高高度で強いのに対して低空ではMC205Vの方が強く、MC205Vも採用となります。
Re2005がいちばん優れているのですが、これはまだ完全になるまでに時間がかかると判断されます。G55を上回る可能性十分とみて開発続行されますが、やはりモノになるまで1年近く遅れています。
MC205Nは失敗作となり、Re2005が量産の暁にはMC205VはRe2005で代替される予定でしたが、それを待たずに休戦となってしまいました。
で、結論
イタリア空軍としてはとにかく高性能戦闘機を早く手に入れる必要があり、非常に焦っていたことが原因でしょう。
CR42でいいとはイタリア空軍当局も思ってはいなかったのです(笑
あまりに一線戦闘機が旧式化、低性能化してしまっていることには十分すぎるほどの自覚症状があって、やや過剰反応気味な対応を強いられるほどであったと。
セリエ5では少々優柔不断の気味がありますが、一応戦場防空にMC205V、要地防空にG55という方向性は見てとれます。
まなかじ
- >自己レス
F6FとF4Uというより、ハリケーンとスピットファイア…かな
ところで
P-36とF2A、P-40とF4F、P-47とF4U
これらは「組織の非効率による二重開発」ですか?
まなかじ
- ゴミレス
>組織の非効率による二重開発
突然不具合が発見され、飛行停止になることがあるので、戦闘機のような欠かせない機種を2種類量産することは保険の観点で意味のあることだと思います。現実にMC200は翼の気流のはがれ等の問題で量産初期に飛行停止になっていたそうです。
ただイタリアの問題は、開発能力及び生産能力が限られているのに何社にも試作させ、それぞれを部隊配備までもっていってしまったことだと考えます。MC200, G50の他にCR42(これがイタリア最多量産戦闘機)も作って、Re2000も少数量産、カプロニヴィツォラ系もごく少数部隊配備し、それぞれにDB601を積んでみるなど、まさに組織の非効率だったと思います。
少数量産のFiat CR25の意義や、700馬力双発のCa 314で雷撃型開発の意味が1942年にあったのかなど、イタリア空軍は技術行政的に素人でも?でいっぱいです。
根拠はありませんが、これはファシスト政権が経済に強く介入し労働者と資本家を協調させ、皆に利益配分が行くようにと談合国家(親方トリコロールor親方サヴォイア?)になっていたからではないかと思います。
>4:「Re2001が少数生産されていますが、これもMC202よりもやや開発が先行していたこと、イタリア空軍が高速戦闘機を一日でも早くと焦っていたことの賜物であって」
S.Shores ”Pictorial History of the Mediterranean Air War Vol.3”Ian Allan, London, 1974, p63,p67をみるとMC202が実戦デビューしたのが1941年10月で、Re2001のそれは1942年5月となっています。C. Dunning ”COURAGE ALONE” Hikoki Pub., Hants, 1998, p28, p36では、MC202のそれが1941年9月、Re2001のそれが1942年5月となっています。当局は本当にあせっていたのかな、とイタリア空軍は好きなのですが、そう思うこのごろです。
中年受験生
- 皆様、回答ありがとうございます。
あまりにもデザインが似てて謎だったんですよー
ケンゴ
- >5
Re2001は、初飛行でみるとMC202より1ヶ月早いです
Re2000はイタリア向けは27機と少数ですが、スウェーデン向け60機(加えて追加キャンセル前に見込みで作ってしまった10機)とハンガリー向け70機で工場が稼動中で、共通部品が多いRe2001をラインに乗せるのは容易と思われましたが、結果として生産立ち上がりで遅れてしまったのは、翼内燃料タンクの防御について空軍と会社がもめたせいらしいです。
ロンギ技師はけっこう我の強い人だったらしく、Re2000が空軍にはねられた理由のひとつにインテグラルタンクがあったにもかかわらず、Re2001でまたしてもインテグラルタンクをつけてるんです。
空軍は初飛行の具合が悪くなかったので直ちに採用、但し、これを改修して制式化するものとしていたのですが、ロンギ技師は輸出型はインテグラルタンクをつけてるし生産上問題があるとか何とかごねて改修作業をひきのばしちゃったんですね。
ま、確かに主翼改設計したら部品やら治具やらの共通という利点は失われるし、航続距離もおろそかにはできませんが、こりゃ利敵行為一歩手前…(笑
レッジァーネの商売もRe2000の売り込みは自社リスクだったということもあって、会社の方も少しへそを曲げていたのかもしれませんねえ
戦争がなければユーゴ、スペイン、スイス、フィンランド、驚くことにはイギリスまでもがRe2000を買おうと商談中だったそうで。
結局MC202より半年ばかりデビューが遅れてしまい、エンジンの優先権もMC202に完全に取られてしまいました。
だったら空軍も思い切ってキャンセルしちまえば…とも思いますが(笑
とりあえず、開発にゴーサインを出した時点では、空軍はDB601付き戦闘機の完成を急いでいたと思います。
その後の処置に果断さを欠いた…かなあ。
このへん、仰るように親方トリコローリな部分があったのかもしれません。
非常時だというのに、いったん交わした契約を破棄できないなにかが。
蛇足ながら
CR42は、R計画そのものへの保険だったわけですが、これは確かにMC200が軌道に乗った時点で打ち切りして然るべきだったと思います。
まなかじ
- ゴミレス
>7:「こりゃ利敵行為一歩手前…・・・驚くことにはイギリスまでもがRe2000を買おうと商談中だったそうで」
故佐貫亦男氏も「イタリアはここで戦争を思い止まるべきだった」と随筆(「プラモ・ガイド’71秋季号」航空情報臨時増刊, No.262, 1971年, 92頁)に書いていましたね。
イギリスはRe2000の他にカプロニCa313も買うつもりだったようで、カプロニ伯はムッソリーニに参戦を思いとどまるよう懇願したと前掲の”COURAGE ALONE”(p265)に書いてありました。Ca313は欠陥機で、それを買ったスウェーデン空軍がえらい目にあった、と中山雅洋氏の『北欧空戦史』(朝日ソノラマ、1982年、334-335頁)に書いてありました。そこで愛国者なら、こう言っただろうと思うカプロニ伯−ムッソリーニ想定会話です。
カプロニ伯「棟梁、今しばらく参戦はお待ちを。わが社の誇るCa313をにっくきイギリスめに輸出して、打撃を与えてから参戦しても遅くはないと思います。」
ムッソリーニ「???」
中年受験生