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日本の陸軍航空と海軍航空では訓練方法が違っていたんですか? なんか海軍より陸軍の方が弱いような気がするんですけど・・。 凶鳥 |
- 私は陸軍のほうに戦術的な先進性を見るような気がします。
BUN
- 太平洋戦争当初,陸軍航空隊は,ノモンハン事変の影響で,熟練搭乗員が減少し,振るわなかったというのをどこかで見たような気がします。
痴呆公務員
- 艦上機は原則として夜間飛行はしませんでしたが、陸軍は夜間飛行をこなせなければ「技量甲」とは認められませんでした。反面、洋上航法は苦手だったようです。強い弱いの問題ではなく、それぞれに得手不得手があったということでしょう。
絵塗師
- 絵塗師様
艦上機も原則でいえば夜間飛行を行います。特に母艦部隊は夜間発着艦を含めてそれを求められます。戦闘ではそうなることが多いことが多いからです。ただ、どうしても訓練時間がない場合は省略するようです。
陸軍の技量認定方法は全くわかりませんが、昭和18年〜19年の第11航空艦隊(海軍)の技量認定は、A:夜間攻撃行動可能、B:夜間(黎明、薄暮)発着可能といった具合で昼間しか飛べないとC以下になってしまいます。
川崎学
- ゴミレスかな。海軍の方の戦記には「ガダルカナルで陸軍サンを助けるため海軍はあんなに酷い犠牲を払ったのに、陸軍の航空隊は洋上航法ができないため南太平洋戦線では全くの役立たずだった」といった辛辣な意見が見られますが、激戦の現場に立った一兵士の個人的感想としてはともかく、戦略レベルの失敗を戦術レベルの優劣を同時に関連付けるのはどうかと思います。陸軍にしてみれば「海軍サンが援護を約束したからこそ陸軍機の届かない孤島で飛行場建設に乗り出したのに、何だあの不甲斐なさは」という見方もあるわけですし。
ささき
- ↑つーか、戦記モノの本を読むと陸軍航空は事故も多いし技量は未熟だし、P-38やP-40には苦戦してるし・・ノモンハンの影響だとしても太平洋戦争までは時間はたっぷりあったと思うんですが?
凶鳥
- 事故が多いとか技量が未熟とは何を指すのか私にはわかりませんが、ノモンハンで貴重な幹部搭乗員を多く失った影響は大きかったとの話は昨年秋にお会いした某陸軍エースパイロットからも聞いています。そういう実感があったのでしょう。
BUN
- ドイツ空軍ゆずりのロッテ戦法は陸軍の方がはやいんだが・・
フリッツ・ロ―ジッヒカイトが来たのがS16年
ロッテ戦法(フィンガーフォー、シュヴァルム)は
陸軍が18年後半から
海軍が19年からだけどあんまり関係ないんでしょうかねえ
ななし
- 昭和19年11月3日、陸軍航空隊の新海隊の、アスリート飛行場攻撃の時は硫黄島まで9機で飛行しました。給油の後、20時に8機編隊で離陸(1機は、途中より引き返す)し、7機で攻撃しました。帰途は各機単機で飛行、3機が硫黄島に帰還、さらに新海機は単機で非常な悪天候の中を浜松に向かいました。御前崎南方40〜50粁あたりで荒天を避け新田原に針路をとりました、雲上飛行2時間ようやく足摺岬を発見、高知の海軍飛行場に滑り込みました。地上滑走中に燃料が切れエンジン停止となりました。
ただし、この攻撃の為に新海隊は、浜松を基点として北は根室の納沙布岬〜南は鹿児島の佐多岬から種子島に及ぶコースを、毎日薄暮に離陸し編隊で夜間洋上を航進する訓練を約40〜50日間(ママ)も続けられました。
また、昭和19年12月初旬、サイパンに切り込み隊での攻撃を決定した陸軍は、海上航法にかけては陸軍随一と自負していた飛行班である陸軍気象部飛行班の、桂元二准尉にその誘導を命じました。准尉は、夜間の海上航法は、天測以外に頼るものは無いと考え、航法主任に緻密な頭脳の持ち主で天測計算の上手い福本雅雄少尉、副操縦に村山伊勢治軍曹、機関係に稲垣三郎少尉を推薦し、気象部長の承認を得ました。昭和12年1月にかけての連夜の訓練のおかげで、その誤差5〜6キロというまでになりましたが、決行日に先立って硫黄島に米軍のこうげきがはじまったために、サイパン切込み計画は中止となりました。
陸軍機も、ちゃんと訓練をすれば海軍機に負けない海上航法が可能だったと思います。結局は、必要性が高かったかどうかでしょうか。
roht
- 98戦隊の重爆を訓練した海軍の下士官が「我々は必要とされ、彼等は必要とされていなかった」と語っていたそうですが・・。それにしても「ノモンハンで熟練搭乗員が多数失ったため」−というのは信じられにんですが。海軍も日華事変で同じように搭乗員を失っていますし・・。言い訳?
凶鳥
- >10
失ったのは熟練じゃなくて「幹部」(正確には後の候補か)です
部隊の中核となり若手を指導育成する役目を担っていた人を失った事は
中長期的に大きな痛手となります
日華事変での海軍の損失数を良く知らないのですが
ノモンハンでの陸軍の消耗は
内部に居る人間から見て大きな影響をもった事件だったのでは無いでしょうか
まただれが必要としていなかったのか、だれが必要としていたのかは
最終的にはそれぞれの人の心の中に有る価値観の問題でしょう、普遍的でも客観的でもないのでは?
SUDO
- 航法の話が出ていますが、海軍の(特務)士官でも「当時は機器がしっかりしていないから難しく、単機での飛行になる索敵など出来ることならやりたくなかった」と、仰るほどだったそうですよ。
海軍でも当然事故は起こっています。特に激しい訓練などやっていると、思っていなかったことでも事故は起こるようで、事故はベテランでも遭遇するものです。また、着陸時の事故は操縦員の腕の問題の他に、飛行機や飛行場の問題もあります。
日本陸軍と日本海軍では、どっちもどっちの様に思えますが、そもそも比べるものなのか?とも思います。
昭和18年から19年にかけて、陸軍と海軍で飛行機の生産を巡って「どっちが有効か」を上層部が議論しています。
その中で、海軍軍令部永野総長が、海洋作戦では洋上で敵艦船を捕捉し雷爆撃して命中させるのには海軍航空でなくてはならん、と力説したところ、陸軍の杉山参謀総長は「それでは海軍に航空機を全部あげたら、この戦勢は挽回できるのか」と反論したら、「そんなこと確約できない。それは貴方も同じことだろう」と応酬した、とあります。
海軍側は洋上作戦に参加してくれない陸軍航空にいらだち、陸軍は(補給がとぎれたガダルカナル作戦、見捨てられたアッツ島など)海軍作戦に不信感を持つ、という状態だったようです。
川崎学
- 九八戦隊は「靖国」配備以前から洋上航法訓練を続けていますし、陸軍雷撃隊に配属された海軍航法要員は若手の十三期予備学生が中心でしたから何ともいえないでしょう。第七戦隊では海軍の派遣搭乗員は宿舎も別、中隊も別で、どこか形式的な配備だったニュアンスがあります。
BUN