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100式司令部偵察機関係の回想談話で、「バラバラになってきた機体を拾 い集めて現地で1機作り、後部座席の部分がなかったのでスペースががら開 きで、そこに8人乗せて基地を撤収した」というような話があったのですが、 こんな事は可能なのでしょうか(機体を合体させて1機作る事と、100式 司偵に8人も乗せる事)? あとこういう現地部隊が作った機体はちゃんと編成に組み込まれるのでしょうか? みは |
また、何人乗ったというのは搭載量の問題で、500kg爆装で離陸できる機体に8人詰め込んでも不思議は無いでしょう。スペースさえ許せば20人位乗せても百式司偵は飛ぶのではないでしょうか。
BUN
ラバウルで修復された零戦としては、上野に展示されていた複座の二一型「53−122」号機が有名ですが、この日百式司偵といっしょに引き渡された五二型も「53−」で始まる尾翼番号をつけており、統一的に運用されていたらしいことがわかります。
片
日本機=細身の胴体に大きな主翼、の先入観がありまして、どうやって8人も
詰め込むのか疑問を感じたのですが、確かに搭載量で考えれば問題ないですよ
ね。こういう場合の機体番号などについてはよくわからない部分が多いので
しょうか?
その回想談話では1度に8人づつで南往復かして撤収したけど、途中から色々
とガタがきはじめたので俺はそれっきり乗らなかったが、あれはどこいったん
だろうな?みないな書き方を確かしていました。
みは
アメリカやドイツの飛行機だと、規格どおりにきっちり作られているので、他の機体のパーツを持ってきてもピタリと合いますが、日本機の場合は、ネジ穴などは現物合わせで開けてあるので、1機1機微妙に位置が違ってたりして、その改修が手間だったとか。
絵塗師
天山艦攻の搭乗員だった方の著書で「青春天山雷撃隊」
マリアナ沖海戦直後のグァム島から、破損した月光2〜3機を1機の機体に整備し、機体整備に協力した15名の整備兵を後席背後の空間に搭乗させ、通信員1名、操縦員(著者)1名の計17名でトラック島まで飛行したとのことです。
著者は後席に装備している機銃と機銃弾の重量を約1トンと見込み、それを外せば、整備員15名×65kg=975kg<1トンと、重量的には定員外15名程度の搭乗は可能と計算したようです。
Syoshinsya
Schump
ささき
昭和20年8月16日。本土空襲による被害を避ける為、戦隊本隊のある熊本から、攻撃隊のみ関東州の三十里堡飛行所に移動していた(沖縄方面出撃時のみ熊本に帰り爆装をして出撃した)飛行六十戦隊の、角田功(少候21期)氏は、隊員240数名を、7機の4式重に乗せて(1機、最大34名?)、午後4時離陸、終戦により飛行禁止の空を飛び、午後7時過ぎに熊本に全機無事に着陸帰還されています。
角田氏を迎えた戦隊長渥美中佐は、目に涙を浮かべ「ありがとう、ありがとう」と角田氏の体を抱いて離されなかったそうです。
ビアク防衛戦中であった2HA参謀長沼田多稼蔵中将を、マノクワリ飛行場に救出にむかった、池島重次郎(少候23期)氏は、不要のビス1本まで抜き、九七重I型に、爆撃室に8人をはじめ、合計28人を詰込み(ママ)サテマまでの飛行に成功しています。
この時、池島氏は私物の持込は一切禁止し、自ら搭乗人数を決める事無く、乗りたい人間が自ら危険だと感じて乗らなくなるまで乗せたそうです。
離陸直前に現地司令官との会話、「池島君、次は何時、来てくれるか?」、「なぁ〜に、すぐに、また来ますよ。」、「そうか。」 お互い二度と会えない事を充分に判っていての会話だったそうです。
34名と28名 これが四式重と九七重I型の性能の差なのでしょうか? 終戦後と激戦地等の状況の差も考慮が必要でしょうか? 私と致しましては、操縦者の腕の差とだけは、考えたくないのですが。
roht
乗る人が危ないと思う所までという事ですので、本当はもっと乗れたのかもしれませんが
一応両機の最大重量から自重を引いた(恐らく)搭載可能量は97重爆I型が2.8t、
4式重爆が5.1t程になります。
飛行距離や燃料搭載量の差もあると思いますが参考程度にどうぞ。
ルージュ