1892 |
「真実一路」紫雲の項。興味深く拝読させて頂きました。 さて、「世傑」を始めとする、世間の諸資料には 「紫雲の初期型は、引き込み式翼端フロートであったが、後期型では翼端フロートが固定され、 単排気管装備となった。」旨の記述があります。 しかし、主フロートを投棄した紫雲が、固定された翼端フロート装着状態のまま、 胴体着水を試みると、転覆してしまう様な気がします。 紫雲のフロート投棄機構は、初期型の検討のみで放棄され、後期型は固定式の主フロートだった・・・。 との仮説を思いつきました。そうすると 実戦部隊での紫雲がフロートを投棄しなかった事も、より合理的です。 この仮説に妥当性はありますでしょうか? 無頼庵 |
それでも浮舟の投下機構が省略されたという記述は無く、戦訓所見には「投下機構は心強い」と真実一路にある通りのことが書かれています。実は被害を受けた塚田機の状況についても当時の方の目撃証言を得ているのですが、まだ発表できません。しかしこの時も浮舟を投下するような状況ではなかったことは確実です。
BUN
紫雲のフロートに関しては「実戦配備されるまでただの1度も投下試験を行わなかった」との記述をみたのですが、それを証明するような資料はなかったでしょうか?
しかし、少なくとも二式大艇等の大型機の翼下にぶら下げて試験できそうなもんですよねぇ・・・。
胃袋3分の1
BUN
簡単です。そういう記述をいくつかの書籍で見たからです。
でも、わざわざこんな回答をされたということは、「そうじゃない」という記述を見たからですか?
それと二式大艇のことは私の単なる感想で、それは質問の一部ではありません。
胃袋3分の1
BUN
火星発動機+二重反転プロペラが、果たして紫雲の15機全部に
装着されていたか・・・。と言うことも疑問です。
無頼庵
胃袋3分の1
量産が約束されている機体だったらどうだったか・・・
しかし、「投下機構は心強い」という戦訓は奥深いですねえ。
tackow
胃袋3分の1
・複座単発の水上機で陸上機より速く、というコンセプトそのものが致命的に間違えていた。
・開発は難航し不具合改修に二年もかかった。
・「大淀」は紫雲搭載のため 44m カタパルトを装備し射出試験を行った。
・昭和 18 年増加試作六機が実用試験の為パラオに配備され「またたく間に」全機喪失した。
・フロート投下機構は風洞試験のみで、実機試験は行っていなかった。従って実戦では「うまく離脱せず、地獄まで持ってゆく重荷となった」。
という意味のことが記述されています。6機の喪失原因が敵戦闘機による被害だという証拠もなければ、実戦でフロートが落ちなかったという積極的証拠も引用されていませんし、「フロートを落としたけど撃墜された」という可能性についても全く考察されていません。また「大淀」と紫雲の関係が本末転倒気味に記述されています。
佐貫氏がこの記述をどこから参照したのかは不明です。氏のエッセイには(文章としての完成度は別にして)勘違いも多いですが、全くの根拠なしに想像を書くような方ではないので何かを参照しただろうとは思うのですが…。
BUN氏が真実一路に引用された以外の「紫雲に関する公式な記録」が何処かにあるのでしょうかね?
ささき
ご自分で申告された経歴を見ると、2座水偵の操縦員で大淀→昭和19年2月に鹿島空→昭和19年5月に1航艦(紫雲隊)そのあとは瑞雲の部隊だったと思います。
最後に同期生に出された手紙には”「巡洋艦大淀と紫雲」について書きたい”とのことですので、ご本人はなにも書かれてはいないのではないか、と思います。
川崎学
片
水上機が次々と撃墜されるのはあたりまえと思います。
フロートを捨てる事ができる?ばかりにそう書かれただけでは?
林檎