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特別攻撃機「桜花」の提唱者とされる太田正一氏についてお尋ねしたいのですが、ある本ではこの案を上申した昭和19年当時、整備兵で階級は兵曹長とあり、また別のある本では厚着基地輸送部隊の偵察要員で階級は少尉とありました。後者の方は比較的最近に発行されたものなのでおそらくそちらの方が有力な情報ではないかとは思うのですが、正確なところどうにも判断できないので、確かな情報をお知りの方がいればどなたかお教え願います。 あと、桜花の製造型式(?)はMXY7でよろしいのでしょうか? 一部、MXY8と描かれた資料があるのですが。 さらについでに、結局の所、桜花は終末弾道時にはどのくらいの速度が出たのでしょうか? 一応、見込み値という形では648kmと出ているのですが、通常飛行した場合の値なのか、それとも特攻時のダイビングを行った時の値を基準にしているものなのか、よくわかりません。複数質問で恐縮ですが情報提供よろしくお願いします。 橘桜花 |
片
川崎学
入団、昭和7年4月に第二十期偵察術練習生、昭和15年5月1日に航空兵曹長に
任用と同時に予備役編入、即日召集され、昭和18年8月に少尉に進級、昭和
19年4月1日に一〇八一空附となっているようです。
元々艦攻の偵察員で後に中攻の偵察員に替わったらしいので、「整備兵」と
いうのは嘘でしょう。
今泉 淳
大田正一少尉、昭和3年に尋常高等小学校の高等科を卒業し同時に海兵団に入団15歳の志願兵である。当時の階級に関しては異説があるが、終戦時は中尉。
『特攻』 御田重宝 著 講談社文庫 より要約。
便乗質問ですが、よろしくお願い致します。
1)太田 大田どちらが正しいのでしょうか?
2)この場合、特務少尉となるのでしょうか?
3)大田中尉?は、昭和20年8月20日、零戦を操縦し、神の池基地より鹿島灘 沖合いに向けて飛び立ちました。その後 死亡説、生存説、有りましたが今で も決着は、ついていないのでしょうか?
roht
ささき
敢えて書きませんでしたが。
>1)太田 大田どちらが正しいのでしょうか?
秦郁彦先生の調査結果をそのままフォローすると「大田」になるようです。
これは、「日本陸海軍総合事典」と秦郁彦「昭和史の謎を追う」の両者が
そうであるということに依ります。
>2)この場合、特務少尉となるのでしょうか?
特務士官准士官下士官の官階の名称が昭和17年11月1日付で変更になってま
して、従来、飛行、整備、機関、工作などが官階に冠されていたのが、この
改正を以って、特務士官は全て兵科に統一された上で、単に「海軍少尉」な
どと称するようになりました。無論特務士官としての扱いは残っていますが、
官階名は単に「海軍大尉」「海軍中尉」「海軍少尉」などとなっています(
准士官以下は従来と同様)。
よって、単に「海軍少尉」が正解でしょう。
>3)大田中尉?は、昭和20年8月20日、零戦を操縦し、神の池基地より鹿島
>灘沖合いに向けて飛び立ちました。その後 死亡説、生存説、有りましたが今で
>も決着は、ついていないのでしょうか?
上で触れた「昭和史の謎を追う」で決着をつけたかのように見えます。なお、
御田重宝氏は本件に関して(に限られるかは分かりませんが)秦先生とつな
がありがあるようで、件の「昭和史の謎を追う」の「『桜花』特攻」の追記
に登場します。また、BBCでこれらの情報が公表されましたが、国内では「
各種の配慮」から公表を避けた、ともあります。
結局のところ、「生存説」が正しくて、1994年12月7日に亡くなってます。
今泉 淳
大田さんも、生存されていてやっぱり良かったと思います。
>重い桜花を抱えつつ、一糸乱れぬ緊密編隊を組んだ陸攻の間を縦横無尽に F6F が飛び交うカラーのガンカメラ映像は涙なしには見られません。
フイルムは、観ることかないませんが、この文章を目に致しただけでも、落涙を禁じ得ません・・・・・。
大田氏は、戦後は批判されておられますが、私は心の隅のどこかで、ほんの少しだけ、零戦を操縦出来たのであれば、ある時期、彼は本当に自分も桜花で散るつもりだったのでは無いか、とも思わないこともないのですが。合掌
roht
戦後、彼が「のうのうと」生き延びた事には批判もあるでしょう。しかし私は、彼が桜花に対して感じていた責任があまりに大きかったからこそ生き延びたのだと思いたいです。意志と無関係な死を若者達に強要してしまった責任として、自らの意志では死ぬ事ができなかったのではないでしょうか。
あまりに厳しい時代にあまりに厳しい運命を生きた彼の心中は、平和しか知らぬ私ごときには想像すら及ばない葛藤があったのでしょうけど・・・。
ささき
roht
橘桜花