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碇義郎氏の著書「戦闘機『隼』」の中に、「空戦性能を97式と同等にするために 翼面荷重85kgを要求された」と言う記述がありました。 その一方で、陸軍航空本部は戦闘機の速力と翼面荷重の推移をグラフ化する 作業をしていたことが同じく碇氏の「疾風」にあります。 また、陸軍航空本部は戦闘機の速力向上を一貫して追求していたのも確かです。 この要求は担当者レベルでのものだったのでしょうか? それとも「速度追求」と「空戦性能は翼面荷重」と言う2派の対立が あったのでしょうか。 たとえば、この数年後、海軍の「烈風」での仕様の混乱のような。 たかつかさ |
この頃の陸軍は重戦と軽戦の二本立てで開発を進めていたはずです。
ちょっと思いついたので書いておきます。
どんべ
2本だては承知していますが、軽戦だからと言って何故
翼面荷重の要求が入ったのか、ということです。
「97戦と同等の空戦性能」=「翼面荷重85kg」と言う短絡と、
戦闘機の要目推移の分析とが同じ組織で同時期になされていることが
理解し難い、と言う疑問です。
たかつかさ
舞弥
隼の当初の要求性能を見ると、九七戦より大幅に直径の小さい高出力エンジンを搭載した「高速九七戦」のイメージがあります。隼の基本計画は素直に九七戦により近代的要素を取り入れ高速化したものと受け止めて良いはずです。この素直に発展しそうな機体が何故実戦配備までに紆余曲折を経なければならなかったのかを考えると、隼の要求性能と、その基本となった昭和十二年度、昭和十三年度の航空機試作研究開発方針の軽単座戦闘機の項目に注目すべきでしょう。隼の要求性能と研究開発方針との最大かつ大き過ぎる差は両者の航続距離にあります。南進指向によって年度毎に航続距離の要求は延びて、十二年の行動半径300kmから十五年の500kmまで年度を追う毎に延長されていますが、隼に要求されたのは行動半径800kmです。これは隼が当初から大陸用戦闘機では無い何らかの特別な機体として開発されたことを示しているのでしょう。この方針の大転換によって隼は大面積の主翼と大航続距離を持つ機体として完成し、それ故に高速化という正当な進化が阻まれ、採用までの紆余曲折を経たと見るべきでしょう。私は「戦術、戦技の研究機関である飛行学校や、試作機の実用促進を目的とした審査部等で、正当かつ深刻な理由なくして上部組織である航空本部の方針を否定することは絶対に出来なかった」と思っていますので、「旋回性能、翼面荷重重視派」という一派と「高速戦闘機派」とが開発の根幹に関わる部分で対立したとは考えることが出来ません。隼の大きな主翼と速度性能の伸び悩みの淵源は、広く言われる様な「格闘性能の追求」ではなく、南進用「応急」長距離戦闘機としての仕様変更にあると見るべきではないでしょうか。
BUN
なるほど、本来の方針では重戦闘機が受け持つべき長距離制空任務を
与えられたと言う解釈で良いのでしょうか?
ただそれでも、なぜ翼面荷重を引き下げるのかがピンと来ません。
南方進出と前線飛行場での運用を想定して、離陸性能の要求が
厳しくなったと言うことでしょうか?
航続性能の引き上げを求めるのならばなおのこと、翼面荷重を
要求に入れてはならないわけですが……。
(巡航速度を下げるか、巡航高度を上げないとならなくなる)
たかつかさ
1、当時中島の設計者だった青木氏は著書の中で。九七戦の仕様書では「近接
格闘性をよくする」とされる部分が、キ43がでは九七戦に勝る「運動性」
を維持する。と言葉が変わっており、この「運動性」は近接格闘性能とは
異なるのでは?との見解を示しているのですが(わざわざ言葉を変えると
いうことは、異なる戦闘法を要求しているのだが、その実体については要
求側もはっきりと表現は出来ない、と補足してあります)。
この説というか仕様書の内容についての信憑性はどの程度なのでしょうか?
2、明野の審議会でキ43が「不採用」との(あるいは不合格との)烙印が押
されたのは何時なのでしょう?
審査部におられた甘粕氏の回想では、15年11月の審議会で「不採用」
となっているのですが・・
tackow
九七戦の翼面荷重は試作機の段階で88kgに達しており、量産機は装備状態により88.7kgから97kg前後までであることからも、妙な指示だと考えられます。
それよりも、隼という機体が当初から搭載量を非常に大きく計画しており、1580kgの自重に対して1トン以上の搭載量がある機体であること、204リットル増加タンク二個を懸吊した過荷重状態での翼面荷重は117kg程度で、これは九七戦の同状態に比較して大雑把に15%前後大きいのですが、エンジンの出力向上がまた、大雑把に15%程度あり、そこで相殺される計画だったのではないかと思えること等に注目しています。隼が苦しんだ「無理」とは空戦性能ではなく、この過大な航続距離の要求であった、という解釈です。翼面積もこの要求を踏まえて決定されたと思われますので、85kg要求は存在しなかったか、あるいは単なる担当技官の声として記憶されて居ただけではないかと想像します。
BUN
この辺りの経緯はじつは良く調べてはいないのですが、15年11月には「キー43遠距離戦闘機仕様書」(見たこと無いですが)が決定したと言われていますので、11月に不採用というのは考えにくいのですが、如何でしょうか。
BUN
確かに85と言う数値は理解に苦しむものです。
ふと思い付いたのですが、離陸性能についてはどうだったのでしょうか?
私の手元には離陸性能要求が無いのですが、
Bauzhl値を出してみると97戦は約20であるのに対して、
1式は一挙に29にもなっています(これは2式戦2型をもやや上回ります)
で、「1式の搭載量要求を満たしてなおかつBauzahl値を97戦並みに」
しようとすると85〜90前後の翼面荷重が必要になってしまいます。
つまり、「離陸性能要求と言う形で実質的な翼面荷重要求があったのではないか」
と思い付いたのですがいかがでしょうか。
また、陸軍の戦闘機に対する運用標準が記載された書籍があれば
ご教示いただけると幸いです>All
たかつかさ
いや、そうなんです。この辺は「不採用になる気配が濃厚」とか「不合格
確実」とかいう記述はあっても公式に「不採用」とする記述は見たことが
ないのです。かなり寝かされてた様な感じはありますが。
で、甘粕氏の回想によれば、氏は明野で「不採用」という結論が出た直後
に技研の飛行課長に就任し、対策に困り果てていた。という事なので、あ
くまでも明野で「不採用」とされた。という事を指しており。また、当時
の技研所長の安田中将は「新たに設計に掛かったのでは到底切迫した情勢
に間に合わないから、どうしてもキ43を改善して一日も早く制式にして
欲しい」と述べたという事なので、「不採用」は明野レベルの話しである
と思います。
私の持っている乏しい資料では、例えば「世界の傑作機」だと「明野での
テストが、いつ、どの様な形で実施されたかは不明(第二次実用試験時?
だが、キ43が受け入れられる筈も無く、不合格に決まったも同然の評価
が下された)」となっており、この事が氏の回想による「不採用」なのだ
ろうか?という疑問であります。
また「遠戦」の仕様書なのですが、これは私の力では如何ともし難い部分な
んですけれど、中島の「政治力」あるいは航空本部側の「不合格対策」とい
う感じもするのですが?
同じ15年の11月だとすればタイミングが良すぎる感じもします。それな
りの根回しがあった気配があるのですけども・・
tackow
陸軍の航空兵器研究方針を昭和13年度改訂版から簡単に並べると、
13年/単座戦闘機(軽、重) 行動半径300km+30分 なしうれば600km
複座戦闘機 行動半径600km+30分 なしうれば1000km以上
14年/単座戦闘機(軽、重) 基本的に上と同じ
多座戦闘機 爆撃機の改造、武装20mmx1、13mmx1以上、銃x4以上
15年/単座戦闘機(軽) 300km+1時間 できうれば500km
単座戦闘機(重) 400km+1時間 できうれば600km
爆撃援護機 14年の多座にあたる
キ43、キ44、キ45はそれぞれ13年の軽単座、重単座、複座に相当する機体説いて1社指定で試作されたものですが、このうち遠距離侵攻の爆撃機援護にあたるのは複戦であって、単座は軽重とも従来通りの戦場上空の制空圏確保以上の役割は求められていません。14年で複戦が消えて多座なるものが登場する訳ですが、いずれにせよ単座機を長距離援護に使うという発想はなかったと見るのが妥当だと思います。必要もないのに過大な行動半径を単座機に要求して他の性能を落とす様な事は考えにくいと思います。
また日本陸軍で南進をまともに考え始めたのは昭和15年に入ってからです。昭和14年修正航空軍備充実計画では昭和18年時点での作戦部隊計画数162中隊の内、満州123中隊、中国15中隊、台湾8中隊、北海道8中隊、内地8中隊と定めていて、あくまで対ソ戦重視であった事が伺えます。これを急変させたのは15年5月までの欧州情勢で、ドイツの電撃作戦によるフランス侵攻に対応して、日本陸軍は仏印進駐を決行します。この時点でようやくシンガポールの英軍というのが現実的な視野に入り、南部仏印を基地として1000kmの行動半径を持つ戦闘機というのが必要になります。すでにこの時点では複戦に対する期待はほとんどなく、キ45は99双軽をベースにした新設計のキ45改が完成したのが16年の9月なので、16年3月(または4月、5月)までに2中隊(あるいは3中隊、5中隊)というタイミングには到底間に合いません。結局増槽装備なら海軍の零戦の例からいっても単座でも1000km近い行動半径は可能という判断にたって、本来の「軽単座」としては「失格」だったキ43が「複座」に相当する役割で採用されたとも見る事が出来ます。ちなみに飛行実験部の今川一策大佐に行動半径1000kmの遠戦の打診があった時には、予想される敵機は英豪の二流どころの戦闘機(ハリケーンやグラディエーター)でスピットはでてこないだろう、とされています。つまりとにかく行動半径が第1で、他の性能はある程度目をつぶるという事になります。
舞弥
BUN
またもともとの数字もフェリー航続距離くさくて、弾薬等まで搭載した条件なのかわかりません。「+20分」という部分も、戦闘出力を使った空戦時間なのかもわかりません。
戦史叢書「南方侵攻陸軍航空作戦」によれば、実際の1式戦の戦闘行動半径は600〜700kmだったとされている事から考えても、1式戦が不自然なほど長い行動半径を持っていたとは考えにくいと思います。97戦の戦闘行動半径は機内タンクのみで450km、266リットルx2の外部タンク付きで約600kmとされていますが、少なくとも97戦よりは長い程度だったのではないでしょうか?軽単座の要求性能である「300km+30分、できれば600km」からはそれほどかけ離れた数字ではないと思います。
舞弥
BUN
航空兵器研究方針に戻りますが、ここでの300kmという数字はあくまでミニマムな数字です。実際には300〜600kmの範囲内という意味で、キ43に対する要求数字もこの範囲内であったと思います。おそらく500km程度、少なくとも800kmや300kmであった可能性は低いのではないでしょうか。500km程度の行動半径を持つ飛行機に遠戦仕様という事で定速ペラと外部タンクを追加し、荒蒔義次氏や坂井三郎氏のような腕のいいパイロットに省エネ飛行のテストをさせれば、1000km近い行動半径を達成するのは可能であったろうと思います。
舞弥
舞弥
また、九七戦の実際の行動半径は増槽無しであれば150km以下のはずです。ほとんど実用例を知りませんが増槽を使用した場合でも300kmには届かないでしょう。戦史叢書の当てにならない部分だと思います。また、隼の増槽は当初はスリッパタンクで試作検討され、15年11月の「遠戦仕様書」で爆弾型に決定されていますので、後から付け加えられたのではありません。そしてプロペラの件も少しわからないのですが・・・。
ですから、隼の航続距離は最初から長いのです。燃料容量から考えて、最低800kmの行動半径を明確に狙っているように受け取れると思いますよ。
BUN
97戦の燃料搭載量は、機内タンク330リットル+外部タンク133リットルx2。後続距離が627kmですから、機内燃料での燃費は1.9km/リットル。燃費が同じだとして、一式戦の機内タンク564リットルだと航続距離は1072km。こんなところではないでしょうか。
舞弥
舞弥
舞弥
キ43試作機の機内燃料タンク容量がキ27に対して倍増していることも解って頂けているのでしたらこれ以上の論戦は質問内容から言って不要でしょう。
BUN