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832 本土爆撃時、マリアナ諸島にB−29はどれくらいの数が置かれていたんですか・
ベルゼバブ

  1. 当然、時期によって変わってきますネ。半分記憶頼りですが・・

    昭和19年の11月、73BWがサイパンに展開した時は100機強
    程度と思われます。

    その後、20年3月10日の東京空襲時には2.5個のBWが展開して
    いるので約500機。5月25日の東京空襲時には4個BWになってい
    るので約750機。
    最終的にはマリアナ諸島のBWは5個で終戦を迎えたので、約1000
    機が展開していた計算になります。

    細かい数字は詳しい方が教えてくれる筈ですヨ。
    tackow

  2. 便乗質問。
    こういった数字の中にF-13はどのぐらいの比率で含まれているんでしょう?
    どんべ

  3. 偵察飛行隊は当初1個の最終的には確か2個でしたから、そんなに多くは
    無い思います(B-24の偵察型も機数に入ってる筈ですから)。

    偵察飛行隊以外の機体もあるのでしょうが、それぞれ少数と思われます。
    tackow

  4. 「1944年10月12日、マリアナ基地のB29部隊たる第21爆撃機軍団司令官に任命されたヘイウッド・S・ハンセン准将搭乗のB29一番機が、サイパン島のアイズレイ(イスレイ)飛行場に着陸した。アイズレイは、もとのアスリート飛行場をB29用に作り変えたもので、アスリート攻撃中に撃墜された米軍中佐の名をとって命名されたものである。同飛行場には11月初めまでに第73航空団が進出した。ついでこの年の末から第313航空団がテニアン北飛行場に、翌1945年2月からは第314航空団がグアム北飛行場に進出した。4月には解体された第20爆撃機軍団(中国・インド基地)の第58航空団がテニアン西飛行場に転属、5月から6月にかけて新たに第315航空団がグアム北西飛行場に配属された。1944年10月末に59機だったB29が1か月平均100機以上の割合で増加し、戦争末期の45年7月末には985機となっていた。マリアナ基地の増強ぶりは驚くべきものがあった。」

    参考文献『改訂 大阪大空襲 大阪が壊滅した日』 P34〜35 
         小山 仁示 著  東方出版 1977年7月 改訂第7刷  

    roht


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