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大戦中の日本の航空機の基点となる後方支援のテポ(補給廠)は、どこにあったのでしょうか? (特にニューギニア、ソロモン航空戦時)一応エンジン交換はマニラで行ったと何かでよんだのですが・・・ウエワクから3000km近くある。 あまりにも日本の飛行機の稼働率が低すぎるので。 ドイツの最悪状態がスターリングラード時の40%位に対して30%切るのがざらとは・・・。 確かに戦記読むと大抵大きくふれないけど整備不良(できない?)の機があるけど。 太 |
BUN
整備員の質が低いというと語弊がありますが、当時の一般的な日本人の機械に対する経験は極めて乏しく、それに型どおりの教育を施しているだけなので型どおりの整備をこなすだけで応用がきかないのです。また戦局が押され気味になってくると、搭乗員だけ後退させて整備員は現地に置き去りという例が多くなるので悪循環になります。
それからウエアクでいえば、陸軍は昭和17年末にラバウルに第14野戦航空補給廠、及び第14野戦航空修理廠、第2〜6航空移動修理廠を配置しています。
舞弥
四七戦隊がコンスタントに高稼働率を維持出来たのは、編成外の臨時の整備小隊
を作ったとかの理由もありますが。整備マニュアルを独自に造ったというのも大
きいらしいですね。
takukou
ささき
独空軍がニューギニアに展開して、日本本土から補給物資を運んだとすれば
稼働率はどの位になるんだろうか・・フェリーの損失率は・・
独の「スターリングラード時40%」の信憑性は兎も角として、我が陸海軍
が道路も繋がってない遙か彼方の南方でそれに匹敵する、あるいはそれ以上
の稼働率を維持してたのも凄いと思った、、
調べりゃ判るんだろうけども、ガ島の米軍とか、フライングタイガースとか
の稼働率はどん位なんだろう・・
takukou
BUN
tomo
本廠の人員は、 軍人軍属約200名、インドネシア人工員約2000名。
第一分廠の人員は、軍人軍属約170名、インドネシア人工員約1500名。
第2分廠の人員は、軍人軍属約 40名、インドネシア人工員約 65名
roht
その他第6飛行師団隷下に6個の移動修理班が編入されたが、これは第一線の飛行場に進出して小修理を行うのを主任務として、飛行場大隊の援助(つまり普段の整備)や修理廠の作業の支援を行います。上に第2から第6と書きましたが、第1はウエワクに直接配備されていました。
中修理とか小修理の区分は具体的には良くわかりませんが、逆に陸軍が保有機の状態を区分するのに「甲」(飛行可能)、「乙」(小修理が必要)、「丙」(中修理が必要)という分類を使っている事からある程度の感じは掴めます。大修理が必要な機体は後送するか廃棄するかになるのでしょうが、もちろん事実上は廃棄でしょう。いずれにせよこれは保有機数には含まれません。
稼働率は、「甲」のうち整備完了のもの/(「甲」+「乙」+「丙」)になると思います。
第17船舶航空廠はもともと第18と共にビルマ方面で編成されたもので、ラバウルに付いたのは昭和18年2月下旬。任務は発動機の定期修理(能力は月平均30ないし40台)でその他プロペラ修理や部品製造も可能だったようです。
舞弥
『銀翼を支えたわれら』 ジャワ航空修理廠回想録刊行委員会 昭和62年発行
委員長 箕田芳郎
編集長 八木心一
スタッフ 荻原茂寿 佐藤重信 志村久仁夫 武安義光 中川 頴
野中貞亮 大塩丈夫 福井富士雄
roht