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817 大戦中の日本の航空機の基点となる後方支援のテポ(補給廠)は、どこにあったのでしょうか? (特にニューギニア、ソロモン航空戦時)一応エンジン交換はマニラで行ったと何かでよんだのですが・・・ウエワクから3000km近くある。 あまりにも日本の飛行機の稼働率が低すぎるので。 ドイツの最悪状態がスターリングラード時の40%位に対して30%切るのがざらとは・・・。 確かに戦記読むと大抵大きくふれないけど整備不良(できない?)の機があるけど。

  1. 海軍はトラック、ラバウル、陸軍は台湾、マニラ、シンガポール等に修理施設がありましたが、エンジンの交換は前線基地でも行なわれています。サイパンで零戦52型のエンジン交換用の「栄31型」が捕獲されているのもその為です。前線基地での可動率の低下は各国空軍共通の現象ですが、日本の場合、可動率の低さは補用部品、補用エンジンの不足も一因ですが、部隊の保有機である破損機の後送ができない状況もそれに輪をかけています。それでも、各航空支廠はかなり奮闘していて、破損機の補修で百機単位の戦力回復を行なった実績もありますし、さらに本土との連絡がほぼ途絶えた終戦直前には、現地での自活兵器として、補用エンジンを基礎にオリジナルの機体の設計と生産計画立案が行われた例もあります。また、日本の航空部隊の場合、前線へフェリーする際の事故による損失の多さが他国空軍に比べて際立っています。
    BUN

  2. あと付け加えるとするなら、日本の基礎工業力の低さを原因とする飛行機自体の信頼性の低さ、整備員の質の低さという要因も挙げられます。
    整備員の質が低いというと語弊がありますが、当時の一般的な日本人の機械に対する経験は極めて乏しく、それに型どおりの教育を施しているだけなので型どおりの整備をこなすだけで応用がきかないのです。また戦局が押され気味になってくると、搭乗員だけ後退させて整備員は現地に置き去りという例が多くなるので悪循環になります。
    それからウエアクでいえば、陸軍は昭和17年末にラバウルに第14野戦航空補給廠、及び第14野戦航空修理廠、第2〜6航空移動修理廠を配置しています。
    舞弥

  3. 整備員に関して若干付け加えると、マニュアルの不備が挙げられると思います。
    四七戦隊がコンスタントに高稼働率を維持出来たのは、編成外の臨時の整備小隊
    を作ったとかの理由もありますが。整備マニュアルを独自に造ったというのも大
    きいらしいですね。
    takukou

  4. (こればっかり言ってるんですが)工具、計測機、交換部品なども不足しがちだったそうです。「炎の空・重爆戦隊」には97重爆機付き整備士だった方の手記が掲載されていましたが、スウェーデン製のスパナセットを入手する苦労談や(ということは国産工具の性能も悪かったんだろうなぁ)、愛機の出撃に備えあの手この手の方法で新品プラグや発電機を入手する様子が描かれていて興味深かったです。滑走路でトタン板を引っかけて曲がってしまったプロペラを「叩き直して」使う描写もありました。後方基地に予備のプロペラはあっても、それを運ぶ手だてがなかったとか(;_;)
    ささき

  5. 全然与太ハナシですけど・・
    独空軍がニューギニアに展開して、日本本土から補給物資を運んだとすれば
    稼働率はどの位になるんだろうか・・フェリーの損失率は・・

    独の「スターリングラード時40%」の信憑性は兎も角として、我が陸海軍
    が道路も繋がってない遙か彼方の南方でそれに匹敵する、あるいはそれ以上
    の稼働率を維持してたのも凄いと思った、、

    調べりゃ判るんだろうけども、ガ島の米軍とか、フライングタイガースとか
    の稼働率はどん位なんだろう・・
    takukou

  6. いわゆる日本機の可動率ってのは戦後に当時の保有機数と出撃可能機の機数から算定したのだと思うけれど、南方の日本機の場合、保有機の中に現地で修理不能の為に手を付けずに放置していた機体が数えられている可能性はありませんか。本来出撃準備の為に見込まれて、整備が実施されいた機数と、帳簿上の機数とに多少の懸隔があったとは考えられないでしょうか?
    BUN

  7.  今となっては話題にあんまり関係ありませんが、陸軍の修理施設の変わり種で第十七船舶航空廠というものがあります。弥彦丸という船に各種工作機械を据え付けて各地に移動してはその地でエンジンのオーバーホールや修理を含めた整備を行っていました。
    tomo

  8. 第二十野戦航空修理廠(治第11063部隊)が、昭和18年8月25日にジャワの工業力を利用して飛行機修理のほか、部品及び材料の現地生産を行う拠点としてバンドン(アンデル飛行場)で編成創立されました。第二十野戦航空修理廠は、十六野航第二分廠を基幹とし、各隊から補充された招聘軍属によって編成されました。当時十六野航第二分廠はマランにも分駐していましたが、マランの将兵以下の人員は第二十野戦航空修理廠の第一分廠(東部ジャワ、マラン飛行場)となりました。昭和18年12月2日、第二十野戦航空修理廠は、第2分廠をモルッカ諸島のハルク島に送りました。

    本廠の人員は、  軍人軍属約200名、インドネシア人工員約2000名。
    第一分廠の人員は、軍人軍属約170名、インドネシア人工員約1500名。
    第2分廠の人員は、軍人軍属約 40名、インドネシア人工員約  65名

    roht

  9. 第14野戦航空修理廠について補足すると、編成定員411名、ただし1割の欠員。昭和18年1月14日にラバウル到着して南飛行場西側に、少なくとも中修理が可能な作業場を設置。その能力は月平均で機体18、発動機20,自動車16台程度。
    その他第6飛行師団隷下に6個の移動修理班が編入されたが、これは第一線の飛行場に進出して小修理を行うのを主任務として、飛行場大隊の援助(つまり普段の整備)や修理廠の作業の支援を行います。上に第2から第6と書きましたが、第1はウエワクに直接配備されていました。
    中修理とか小修理の区分は具体的には良くわかりませんが、逆に陸軍が保有機の状態を区分するのに「甲」(飛行可能)、「乙」(小修理が必要)、「丙」(中修理が必要)という分類を使っている事からある程度の感じは掴めます。大修理が必要な機体は後送するか廃棄するかになるのでしょうが、もちろん事実上は廃棄でしょう。いずれにせよこれは保有機数には含まれません。
    稼働率は、「甲」のうち整備完了のもの/(「甲」+「乙」+「丙」)になると思います。
    第17船舶航空廠はもともと第18と共にビルマ方面で編成されたもので、ラバウルに付いたのは昭和18年2月下旬。任務は発動機の定期修理(能力は月平均30ないし40台)でその他プロペラ修理や部品製造も可能だったようです。
    舞弥

  10. 上記Gの引用文献です。発行に御努力なさいました諸先輩の御苦労を思い記載させて頂きます。

    『銀翼を支えたわれら』 ジャワ航空修理廠回想録刊行委員会 昭和62年発行

     委員長  箕田芳郎   
     編集長  八木心一
     スタッフ 荻原茂寿  佐藤重信  志村久仁夫  武安義光  中川 頴 
          野中貞亮  大塩丈夫  福井富士雄      

    roht


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