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637 日本帝国航空隊のパイロット編成についての質問です。
1.航空隊志願者は爆撃機パイロットか戦闘機パイロットの自己選択は出来たので  しょうか?
2.選択不可能ならば、爆撃機と戦闘機のパイロットはどの様な要因で分別されて  いたのでしょうか?
3.選択可能ならば、どちらを選択する者が多かったのでしょうか?
4.戦闘機と爆撃機、それぞれの操縦特異性とは何でしょうか?
こちらか「社会、組織、時事」のどちらのスレッドか迷いましたが、ここで質問させてもらいました。質問の不適切を指摘されれば、「社会、組織、時事」スレッドで改めて質問したいと思います。
包茎ウルフ

  1. 詳しいことはさっぱり・・なのでお恥ずかしいですが。
    一応志望書を書くようですね。その、適正試験というのも
    あるそうです。また、人相見が、お前の顔はごついから、
    艦爆乗りだと決めたり、手相見も判断に加わっていたという
    事で、当時の志望者は驚いたとのこと。
    3番爆弾

  2. 何かというとやはり坂井三郎さんが登場しますが、「大空のサムライ」にも↑3番爆弾さんが書かれたようなことを含めて、その辺の事情が記述されていたと記憶しています。
    EAW

  3. 今、手元に資料がないので詳しくは書けませんが、
    海軍飛行科予備士官については
    「飛行科予備士官よもやま物語」光人社刊 陰山慶一著
    「暗い波涛」新潮社刊 阿川弘之著 が参考になると思います。
    また、陸軍については
    「空のよもやま物語」            わちさんぺい著
    「少年飛行兵よもやま物語」ともに光人社刊  頼 なんとか(失念)著
    あたりが参考になるのではないでしょうか?
    浅学なため、あまり参考にならないかもしれませんが・・・
    ゆう

  4. (ご質問1.− 3.について)↑2.坂井氏によれば、1937年当時の海軍では
    「中間練習機教程を卒業すると同時に、各自の専修機種の決定(この決定は、本人の志望はもちろん、技量、性格、適性、その他、いろいろのデータをもとにしてなされる)が発表され・・・」[大空のサムライ]、
    「・・・各人の希望機種に対するアンケート用紙が配られ・・・第一志望と第二志望を記すこととなっていた。・・・数日後、専修機種の発表がなされた。・・・内訳は戦闘機十名、艦爆八名、艦攻七名・・・不思議なことに私たちのクラスでは、ほとんどのものが志望どおりであった。」[続・大空のサムライ]
    という状況であったようです。
    EAW

  5. ↑3、わちさんぺいさんが、昨日(3/9)お亡くなりになったそうです。合掌。
    Schump

  6. ↑新聞ちゃんと読めよ俺。亡くなったの去年の12月じゃんか。
    Schump

  7. (ところで、ご質問4.について)戦闘機はともかく爆撃機にはいろいろあって、上記の艦爆などは(もちろん戦闘機と対等にとはいかなくても)ちょっとした格闘戦もできるように設計されているようですね。他方双発以上の爆撃機は、悠々と飛んでいなければさまになりません。
    EAW

  8. 旧海軍に限定して、書きます。

    そもそも、搭乗員は一般に操縦、偵察の二つの配置があり(電信は偵察の傍系
    と私はここでは見倣します。搭乗整備員は、元々整備術練習生出身で搭乗員で
    はない。攻撃員は戦争が進んでからの話なので割愛)、また搭乗員育成の制度
    にしても、士官(兵科将校)については飛行学生(操偵一系時代がある)、下士官
    兵に対しては、古くからある操縦練習生(操練)と偵察練習生(偵練)、比較的新
    しい予科練(甲、乙、丙)など色々あり、これらは歴史的変遷を持っており(さ
    らに、予備士官などの制度もある)、一概に上記の制度を並べて論じるわけに
    はいきません。また、操縦にしても、陸上機、水上機の別もあります。

    既に指摘あるように、中練教程卒業時に専修の別を決定し、艦戦、艦爆、艦攻、
    二座水偵、三座水偵などに振り分けられるものと考えています。そこでは、

    「希望は述べられるが、最終的には命令に従わざるを得ない」

    が原則だと思います。この「専修」の種類については、時代によってある程度
    の移り変わりがあると私は考えておりまして、初期のころの中攻は経験が十分
    ある艦攻出身者から選抜、飛行艇要員はまず三座水偵で経験を積むなどの慣例
    があった模様です。一般に、専修はやはりその人の適性などを判断した上で、
    担当教官・教員(また教官、教員達の合議)が決定するものと思いますが、例え
    ば「○○一水は操縦がうまくないから、副操縦員として腕を磨く機会がある中
    攻にまわそう」なんて記述を、どなたかの手記でみたことがありますね。この
    辺りの基準が、もしかしたら明文化されていたのかもしれませんが、手持ちの
    資料中にそれを示唆する記述はないようの思います。

    その他、艦爆→陸爆、陸攻→陸爆、水偵→艦偵・陸偵、水戦→艦戦・陸戦など、
    本来の専修から離れる(という表現が使えるかどうかの議論はありますが)よう
    な例が、戦争後半になると存在します。また、戦闘機不要論が台頭した当時は、
    有能な戦闘機専修者が陸攻に転科させられたなどの話も耳にします(しっかり調
    査したわけではないので念のため)。

    ちなみに手相云々の話は、海軍航空本部嘱託水野義人が手相骨相を見て、(多
    分)昭和12年頃から総計二十三万数千人の操縦適正を判定したということだと
    思います。

    今泉 淳


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