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634 ぶっちゃけた話し、帝国海軍航空隊と帝国陸軍航空隊では、どちらが強かったのでしょうか?
個人的には、どうみても海軍なんですが。
そして、その原因は何なんでしょうか? 例えば訓練の仕方で多くの差があったのでしょうか
(例えば、洋上航法ができないのは、それほど重要なファクターなのでしょうか。それならばアメリカ陸軍航空隊は洋上航法ができたんでしょうか?)

TDF-MA.1

  1. 強い・弱いの問題ではなく、どういう用法に使うかという戦略的前提が違うのだと思いますが。
    洋上航法ができないのは、陸軍が(少なくとも太平洋戦争で南方に出るまでは)その必要を
    感じていなかったからでしょう。逆に、敵味方入り乱れる前線で的確な近接支援を行う
    訓練なら陸軍のほうが高い練度を持っていたはずですし。
    太平洋戦争での陸軍航空隊はインドシナ方面や本土防空戦闘を除けばパッとした活躍を
    していませんが、それは彼らが受けてきた訓練の前提とは異なる環境に投入された不幸
    だと思います。いわば、密林でこそ能力を発揮する虎を開けた草原に持ち出してライオンと
    戦わせるようなものでしょうか…。
    ささき

  2. どっちが強かったかは残念ながら私には判りませんが、太平洋戦争の第一段階がほぼ終了した時点で無敵を誇る海軍戦闘機隊とは対照的に、陸軍はP40やハリケーンをそれなりに評価し、自らの戦闘機隊ををあまり強くない、と判断していたことを面白い事実として挙げておきたいと思います。緒戦の大損害がそうした判定を下させたのでしょう。
    ソロモン方面への進出要請に対して、零戦の供給を求めたことも、航空機の不足だけが理由ではないように思えます。予定通り供給されていれば、ラバウルへは零戦(32型かな?)36機編制の飛行第一戦隊と隼装備の第十一戦隊が進出していたと思われるのでマニアとしては残念ですネ。
    BUN

  3. パイロットの技量を判断する指標となる数字として訓練飛行時間があります。複数の資料によれば陸軍より海軍の方がパイロットの飛行時間は長かった事になっているので、海軍側の方が平均的な技量は高かったという事はできそうです。
    しかし実際の所はその事よりも対ソ戦を想定して作られた陸軍航空隊が太平洋を主戦場とする戦争に対応できなかったという事の方が大きいのではないかと思います。
    それからBUNさんが指摘された敵の評価の点は面白いと思います。これはBUNさんが指摘されたような意味もあるのですが、なんというか海軍より陸軍の方が馬鹿正直なのではないかという感じも受けます。例えばソロモンの航空戦についての海軍の報告とニューギニアについての陸軍の報告を見ると後者の方が当時の実相に即したものではなかったかと思います。また陸軍側がニューギニアで遭遇したP-38の戦法について一撃離脱や編隊戦術を正しく理解して評価しているのに対し、海軍側の記録では断片的に書かれているだけで余り理解していないのではないかと思われる節もあります。
    舞弥

  4. 比較がしやすい例としてポートダーウィン上空での空戦を本が出てきたので書いておきます。
    1943年5月2日202空の零戦隊27機と753空の1式陸攻25機でポートダーウィンに侵攻。
    33機のスピット5Cが迎撃して豪軍側の損害スピット損失13機。日本側戦闘機陸攻ともに損失なし。
    同6月20日59戦隊の1式戦22機と61戦隊の百式重爆18機が同地に侵攻。
    豪軍側の損失スピット2機。日本側の損失1式戦2機重爆1機。
    同一の条件と同一の相手に迎撃されての結果なので零戦隊の優位が分かります。
    202空が海軍有数の精鋭戦闘機隊だった事は間違いありませんが、59戦隊も最初に1式戦を
    装備した陸軍最精鋭の戦闘機隊なので、昭和18年頃の状況では海軍の方に機材や戦術の面で
    1日の長があったのはまちがいないのではないでしょうか。

    #59戦隊の戦隊史がとても読みたい。見た事ないけれど出回ってないのでしょうか。
    こういち

  5. 4のこういち氏の回答についてですが、火力の問題もあったのではないかと思います。
    一式戦の13mm*2の火力では敵機を撃墜するまでの追従時間が長くなり、
    攻撃側にとっても危険な時間が長くなるように思えます。(当然ながら攻撃側は前しかみてない)
    撃墜までの時間がかかると当然、救援の敵機も駆けつける事になります。
    無線連絡がしっかりしている欧米機に対してのかなりの弱点ではないでしょうか。

    酷評されがちな零戦の20mmですが、ある程度は役にたっていたのでは思うのですが。

    私は第二次大戦のメガプレーヤーフライトシムでよく飛んでいるのですが、
    火力も戦闘機の運動性と密接に結びつく問題であるとよく痛感しております。


    電脳飛行士

  6. 碇義朗氏の著書によると、ポートダーウィン空襲は陸軍航空隊が長距離洋上飛行に慣熟していないのを承知の上で、「陸軍の面子」のために敢行されたという記述があります。しかし燃えやすい陸攻を海軍が完璧に守ったのに対し重防御・高火力のはずの呑龍が2機墜とされ、また高低同時攻撃により敵防御を分散するはずだった75戦隊の99軽爆との連係も失敗しているところを見ると、やはり陸軍航空隊はこと長距離作戦においては経験不十分だったのかなぁと思いますね。
    ささき

  7. 豪軍側の記録によると海軍の陸攻隊に比べて陸軍の重爆隊の防御砲火は拙劣であったと評価しているそうです.753空はガダルカナルでの苦い経験から編隊での組織的な銃火網を構成して迎撃機を寄せ付けなかったのに、これが初陣の百式重爆は各自でばらばらな銃火だったのがこの差になったようです.
    また753空は新開発の自動消火装置とゴム板を現地で装備してこの戦闘に望んだので,ソロモン上空のように被弾即炎上にはならず全機生還につながっています.
    こういち

  8.  
     1のささき氏の意見がもっとも正解に近いのではないでしょうか。
     太平洋戦争時の陸海軍の航空隊の戦域割り当ては、アジア大陸側(ソ連から
    インドまで)が陸軍、太平洋側が海軍と決められていたそうです。範囲からすると
    おおむね半分ずつで、釣り合いはとれています。
     こう決めた理由は、ささき氏のいう各々の元々の守備範囲を前提としたもので
    しょう。
     航空戦のように、動力で動かす乗り物を使う戦いは、戦う部隊が強いか弱いか
    は、道具である飛行機の性能で決まる場合がかなりあります。
     大戦初期の零戦の活躍は、機体とパイロットの優秀さがクローズアップされる
    傾向にありますが、数でも勝っていた場合が大半であり、また、くわしく見て
    いくと、それでさえも、間一髪という場面もあったようです。
     それと、ポートダーウィン戦は確かに陸軍がぱっとしない結果になっていま
    すが、逆に同じ場所を守備していたのに海軍がぱっとしない結果となった例も
    あります。
     北千島の幌筵島に展開した、陸軍飛行54戦隊(一式戦装備)と、海軍281
    空(零戦装備)です。
     昭和18年9月12日、アリューシャンから来襲したB24 9機を2個中隊で
    迎撃した一式戦は1機の犠牲と引き替えに確実1機、不確実2機の撃墜を果たしま
    す。ところが、このとき、同じ島の別の基地にいた281空の零戦15機は、自分の基地の上を哨戒飛行するだけで、全く敵機を追いませんでした。
     この他、9月12日にはB24 7機、B25 11機を迎撃し、体当たり戦死
    の1機のみの犠牲でB24 5機、B25 2機を撃墜と大活躍です。
     千島列島最北端の島で、夏は濃霧、冬は地吹雪に襲われるという過酷な気象条件
    の元、2年半の間、防弾装備の厳重な米軍の爆撃隊と、武装の劣る一式戦で戦った
    い続けた陸軍航空隊の闘志と技量は、高く評価すべきでしょう。
    ぱんてる

  9.  失礼、先ほどの北千島迎撃戦の日付で9月12日を2つ書いてしまいましたが、一回目は8月12日、2回目が9月12日でした。

    ぱんてる

  10. 世の中にはピン・キリがありまして、一応ボートダーウィンは陸海の
    ピン同士の戦いなので例として出しました。でも北千島の例は陸海の
    比較にはならないのではないでしょうか。54戦隊は疑いなく陸軍の
    精鋭航空隊ですが281空は海軍の恥部でしょう。

    9月12日の迎撃戦で海軍はB24 3機の撃墜を報告しています。
    けれどもこれは452空の2式水戦10機と零式水観5機が挙げた
    成果です。なんと零式水観!がB24にとりついて必死の空戦を
    行っていたとき281空の零戦隊15機は対潜哨戒していたって報告して
    いるんだからこれは何事なんだ。
    これは陸海の能力云々の前に281空の指揮官の性格に重大な問題が
    あったと思いますね。零戦隊はB24を捕捉できなかったのではなくて
    捕捉する気がなかったんです。
    技量を見るのなら劣速の2式水戦でB24を捕捉している452空の
    能力を見てください。この下駄履き部隊の技量は相当高かったと
    思います。
    こういち

  11. 一回の空戦の結果で強さを云々するいうのは無茶でしょう。その時々の彼我の相対位置や発見の早さとうで結果は大きく変化しますので一回のサンプルでどうこう言うことは難しいです。ましてや実際の複数の例に対して「これはカウントする、これは含めない」とされてもいささか説得力に欠けます。
    1943年5月2日の空戦ではスピットとP-40の混成で、豪側の記録ではスピット8機とパイロット2名の損失とされています。日本側に未帰還機がおないので勝ちには間違いありませんが零戦、陸攻とも各7機が被弾しているので被撃墜機がでなかったのはたまたまだったとも言えます。
    それから海軍側が有利だった理由として、最初に海軍機と戦闘した戦訓として豪側が「燃料搭載量の増加、邀撃の早期実施(後手に回らずに高度を得ておく)、格闘戦の回避」といった対策を実施したため、後から戦った陸軍機には不利だった。海軍側は豪州攻撃には飛行時間1000時間以上のベテランのみで攻撃隊を編成していた、という事もあります。
    不意打ちbyみやむー

  12. >それから海軍側が有利だった理由として、最初に海軍機と戦闘した戦訓として豪側が「燃料搭載量の増加、邀撃の早期実施(後手に回らずに高度を得ておく)、格闘戦の回避」といった対策を実施したため、後から戦った陸軍機には不利だった。>

    実は陸軍の攻撃のさらに後の6月30日により内陸のブロックスクリークに202空と753空のコンビで侵攻しており、38機のスピットファイアが迎撃、スピット損失6機、日本側全機生還を記録しています。この時は相手も格闘戦禁止を申し合わせていてより遠距離であったのに再び202空の完勝です。この空襲は遠距離すぎて全滅説もあったのに石川信吾少将の決断で実行されたもので、さすがに鈴木少佐も驚きだったらしくインタビューで全機がそろったときは涙がぼろぼろ流れたと語っています。

    それと敵発見の早さと高度差についてですが、それは勝負のうちでしょう。鈴木少佐は空戦前の編隊機動が達人の域に入っていた人物で空戦に入る前に勝負は決まるという言葉を残しています。(今も健在のはずですが)実際この方は個人撃墜数はそれほどでもないのですが支那事変以来部下に多数のエースを輩出している海軍屈指の名指揮官です。
    6月30日の空戦では迎撃側が投弾前に接敵してきたため高度の優位をとれなかったのにも関わらず陸攻隊に向かった敵編隊を逆に編隊で包囲して勝利に繋いでいます。(細かい話はご本人のインタビューを見てください。書名を失念してますが興味がおありでしたらお教えします)
    またオーストラリア上空での零戦隊の戦闘は18年中に計9回行われ日本側損失零戦3機陸攻2機、スピット損失38機ですから1回きりの勝利ではありません。(これは両軍の記録です)5月2日がスピット損失8機とのことですがプラス5機が燃料切れで海に墜ちているはずです。P40が参加したという話は寡聞にし読んだことがないのですがこの日迎撃したのは54SQ,452SQ,457SQのはずですが他の飛行隊が参加したのでしょうか。

    それと北千島の281空はそもそも戦意がなかったので機材や戦法の比較には成らないだろう言う判断です。(彼らはそもそも空中戦をしていない)ただ202空が強すぎたとはいえるかもしれません。この地区は油があるので訓練を徹底的に出来るので半年間の休戦期間中に大きく技量を上げています。一線のパイロットには1000時間以下のものはいなかったと生き残りの方々は豪語されていますから特に選抜したのではなく先任を選んだだけです。ちなみにこのころの202空は隊長の命令で全員ヒゲをはやしておりヒゲ部隊を名乗っていたそうです。最も59戦隊もそう言う意味では条件は同じなんですがね。
    こういち

  13. 当時の202空がベテランが多く残っていて、1942年11月から翌年2月までケンダリーで錬成訓練に励んだ事は確かです。従って彼らが海軍航空隊の中でも技量が高かったのは確かです。鈴木少佐の談話は戦史叢書「南西方面海軍作戦 第二段作戦以降」にもありますが、「1000時間以上の者だけつれていった」というのはその中での彼のコメントです。開戦当時ならともかくこの時期にはこれだけの練度を持った部隊はごく少数派であると断言していいと思いますが、これを海軍搭乗員全体のレベルの基準とするのは無理があります。
    不意打ちby

  14. >これを海軍搭乗員全体のレベルの基準とするのは無理があります。

    それはもちろんそうですよ。だから比較している陸軍の59戦隊も同様の恵まれた条件にあったわけで、後にブーツ飛行場で奮戦を見ればわかるように彼らの技量が202空より低いとは私は書いてませんし、そうも思ってない。
    どちらも技量抜群で訓練に恵まれた環境にある2つの飛行隊が同じ目標で同じ相手と戦ったんだから機材と戦術の違いがわかるだろうと言うことです。その結果からその時は海軍の方に一日の長があるだろうと言う結論なんです。
    誇り高い帝国陸軍も兜を脱いだか9月7日には202空が陸軍の軽爆を護衛して侵攻してるしね。
    こういち

  15. 繰り返しで恐縮ですが、こういちさんの挙げた例から言えるのは202空は59戦隊より強かったという事だけで、それを海軍と陸軍の強さの比較のバロメータとする根拠はありません。まず202空と59戦隊の搭乗員の技量が同等だったと考えられるだけの根拠がそもそもありません。また戦術面においても202空のそれが鈴木少佐という一人の人物の指揮官としての資質によるものだとすれば、自動的にそれは202空のみの特殊な条件で海軍飛行隊全般には当てはまらないという事になるかと思いますが。
    不意打ちbyみやむー

  16. 論点からずれそうなので書かなかったのですが、最後に僕のあげた数字もこういちさんのあげた数字も余り正確ではないので整理。出典は「伝承零戦」の碇義朗氏の文章からひきます。こういちさんもこの本の記述を元にしているはずなので大きな相違はないはず。
    5/2の空戦で邀撃にあがったスピットは33機、ただし5機はエンジン不調で引き返したため抗戦したのは28機、このうち被撃墜が5機(パイロット2名死亡)、燃料切れによる不時着が5機、エンジン故障による不時着が2機。
    6/30の空戦では出撃38機に損失6機、ただし損失機のうち3機はエンジン故障。
    この当時のスピットのエンジンと機銃の故障は多さはただ事ではなく、戦闘に大きく影響を及ぼしています。
    不意打ちbyみやむー

  17. ごめんなさい、間違いました。5/2にエンジン故障で不時着したのは3機です。これで合計13機の損失で計算が合いますね。総計38機損失はこれらの累計です。
    不意打ちbyみやむー

  18. それから
    >誇り高い帝国陸軍も兜を脱いだか9月7日には202空が陸軍の軽爆を護衛して侵攻してるしね。
    既にこの時点では59戦隊は所属する第7飛行師団(第6も)の他の部隊と同じく8/16の攻撃で地上撃破されて壊滅状態なんでしょうがないでしょう。(9/10時点での59戦隊の可動機数は14機。)

    不意打ちbyみやむー

  19. >ラバウルへは零戦(32型かな?)36機編制の飛行第一戦隊と隼装備の
    >第十一戦隊が進出していたと思われるのでマニアとしては残念ですネ。

    陸軍の「天山」ってのも、相当なものでしょう。
    今泉 淳


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