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零戦52型はよく酷評されていますが、その前の型、22型のパイロットの方々の評価はどのようなものだったのでしょうか? 弥空 |
*「零戦戦史 進撃編」これはいい本だ。凄くいい。零戦本の決定版はほぼ確定。
*サブタイトルの「進撃編」「激闘編」というのは明らかに柳田邦夫氏の某著を明らかに意識してると見た。「俺ならずっといいのを書ける」と思ったに違いない。
*質問者の方、ごめんなさい。
舞弥
これしか知らない搭乗員にとって、零戦は21型に限る、等とは誰の発言だと思ったことでしょう。
そうですか、渡辺洋二の零戦本、もう出てますか、買いに行きます。
BUN
BUN
202空が使用していたのが全機22型のようです。
ポートダーウィンでの鈴木少佐率いる22型はコールドウェル中佐
率いるスピットファイア5Cと数次にわたって交戦して撃墜38機、
被撃墜2機という完勝を挙げています。当時の202空パイロットの
零戦に対する評価はきわめて高いので22型は好評だったようです。
信頼できる飛行機でなければ航続距離ぎりぎりの敵地までの
往復行はできませんよね。
こういち
すみませんが、教えていただけますか。
BUN
ポートダーウィン上空の零戦を参照したんですが、読み返してみると
全機22型とは書いてありませんでした。これは僕の早とちりでしたすいません。
ですが、22型が参加している事は確認できて、神立尚紀氏の「零戦最後の証言」の
伊藤(加藤)飛曹長の項に彼の当時の愛機が写真入で載ってましてこれが22型です。
特により内陸のブロックスリーク空襲は片道500マイル以上という距離だったので
32型が参加できたとは思えませんし、こういう長距離遠征の場合エンジンの異なる機種間での
編成はあるのでしょうか。ほぼ22型だったのではないかという事は私の予想という事に
して下さい。
それからEAWさんからの坂井機撃墜の件ですが、載ってた本をダンボール箱の山から
探しているのですがまだ発見できていません。詳細はもうちょっと待って下さい。
こういち
大戦中盤の米戦闘機が600キロ以上の速度を出せるようになってから(2000馬力エンジン搭載による)の空戦は、明らかにそれ以前とは違うと思います。大戦後期に活躍して生き残った零戦乗り、杉本計雄さんの「撃墜王の素顔」には、空戦は互いを発見してから2〜3分で終わる(または5〜6分)と書いてあったと記憶しています。大戦初期の格闘戦で勝ち続けた時代と違い、出会ったと思ったらあっという間に終わってしまうわけです。
こんな時代に21型に乗りたいというパイロットはほとんど居ないのではないでしょうか。
格闘性能より、少しでもスピードが欲しかったのでないでしょうか。
前記の杉のさんの著作にも、この辺のことはあまり詳しく書いてはありませんし、他の当時要員の記録にもはっきりとした記述を読んだ覚えはありません。
どなたか、このあたりの空戦の模様を詳しく書いた本をご存じでしたら、教えていただけませんでしょうか。
ぱんてる
交換時期がきて交換する時新しいエンジンに乗せ換えてしまうことが
とてもよくあったという記述がありました。
つまり栄22型を搭載した21型ということになります.それでも名称を
変えなかったので現場では混乱があったそうです.
つまりある時期以降の21型は22型相当になっていたものが多数あった
様です.BUNさんの意見のように21型と22型がほとんど同じ機体として
搭乗員に認識されていたのこういう事情があったようです.
こういち
光人社の「零戦最後の証言」の中村飛曹の証言があります。この人は手続きの問題で最も長く(本当は転勤できたのに出来なかった)ブイン・ラバウル時代の6空・202空にいた人物で出撃回数は生き残った人の中でも最も多いと思われる人物です。ですが中村氏が格闘戦をやったのは1回きりだそうです。開戦当初ならともかく戦術を改善した米軍の前でスピードと高度を失う格闘戦を行う人は1回はともかく長い間生き残ることはできないと言うことでしょう。
こういち
こういち
可能であり、実例があるのは栄21型を栄31型に載せ替えること位でしょう。
BUN