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アヴェンジャ-はグラマンとGMでつくられています。アヴェンジャ-は、TBM,TBFと製造会社により区別しています。零戦は三菱で設計、製造されましたが、中島でもつくられています。A6M2,A6N2と区別していないと思いますが、どうでしょうか。またなにか区別するコ-ドでもあるのでしょうか。教えて下さい a6m2j |
A(艦上戦闘機を示すコード)
6(通算6番めの計画)
M(開発会社コード)
2(改修番号)
なので、三菱が開発した機体は中島が製造しても
A6Mです。
もし、同じ仕様書に対して中島が開発した機体があれば
(たとえ三菱で製造されても)A6Nになります。
ご質問の「製造会社を示す区分方法」は……どなたかお願いいたします。
たかつかさ
零戦 写真集 丸編集部偏より回答
A6M7
日本機も、製造工場によって細部の仕様が異なる場合もあったとされていますが、具体的に中島零戦と三菱零戦がどう異なったのかは伝わっていません。ただ、日本でもそれぞれ運用を区別することが必要な場合もあった様で、機体の塗装で区別している場合(零戦、流星、紫電改、97艦攻撃等)もあり、前線部隊の列線を綺麗に両者区別して並べている写真も多く見かけますけれども、国内の基地での撮影が多く、単に写真写りを気にしてのことなのかもしれません。同じく写真を見る限り、最前線では混用されていたのではないかと考えられます。
BUN
Schump
中島と三菱は零戦を生産していたとはいえ、16年夏から19年2月までは両社の生産していた型式が違いますし、19年夏以降はそんなこと言っていられる状態でもなく(坂井三郎氏も「後期には細かいことを言っている場合じゃなくなった」という内容を語っていたと記憶しています)、また、この頃には生産数では圧倒的に中島製となってしまっていたのですから、もし、そうした出来事が頻繁にあったなら、16年夏頃までか、19年前半の第一航空艦隊を構成した大量の新編成の零戦部隊(「虎」261空など漢字一文字の名前の部隊です)などでは起きた可能性はあります。しかし、それらの部隊も21型半分、52型半分の編制であることが多く、中島、三菱の比較が型式の比較を越えて行なわれたかどうかは疑問です。
BUN
BUN
零戦の試飛行を(いわゆるテストパイロット)行っていたそうです。
昭和19年後半の零戦の状況についての証言によると
中島零戦が際だってひどかったのは事実だそうで彼らの間では
「殺人機」と言われていたそうです。
台湾まで中島零戦を空輸するのは命がけだったらしい。
4式戦もそうですが軍需大臣のお膝元言うこともあって
生産目標達成だけに狂奔して粗製濫造に陥っていたのでしょう。
こういち
ささき
それからお役所的の代表(というかそのまんま)が工廠で、民間会社にくらべて良く言って事務的、悪く言って手抜きというのが当時の常識(余り表だっては言えない)としてあったと断言していいと思います。
舞弥