603 |
戦史叢書を読んでいたら次のような文章がありました。 「(昭和19年)2月11日にはB24邀撃戦用として30粍機銃装備の零戦17機が到着したが・・・」 この30ミリ機銃装備の零戦、ラバウルに送られたようなのですが、 やはり零戦52型という呼び名でいいのでしょうか? 源五郎 |
BUN
出典は「南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後」P478下段です。
最初は誤植かと思ったのですが、B24邀撃戦用と記されているので疑問に思ったわけです。ただ別巻に添付されているであろう正誤表は調べてません。
源五郎
その様な記述がありますね。
但し、進出機数はこのHPの航空機データベースにある
通り2機では無いでしょうか?
で、たまたま「日本軍用機航空線全史」が手許にあるん
ですが、A6M3から5機改造の内、2機がラバウルに
進出したとあります。搭載はあくまでもテストのためだ
ったそうな。
takukou
さて、決定的な資料が見当たらないのであくまで推測になってしまいますが、まず、機銃については海軍の30mm機銃の開発の本命だった日本特殊鋼製ではなく、大日本兵器製のエリコン改良型の30mm銃があった様で、これの装備機なのでしょう。この機銃の正体については他に詳しい方に譲ります。)
では、この零戦はどうなったかを推測してみましたが、2月11日という日付はかなり微妙な日付で、ラバウルからの主力航空隊引き上げの一週間前に当たります。
このタイミングで果たして実戦参加したものか、と考えていた所、トラック空襲の際のトラック島にあった135機の雑多な部隊の内、204空所属の零戦15機というのが怪しいのではないかと思います。(永石政孝 「海軍航空隊年誌」による)26航空戦隊の司令部はトラックにいたはずなので204空(空技廠との人脈もあり、こうした機体を受領する可能性が一番高い部隊でしょう。)で受領、整備中にトラック空襲に遭遇し、壊滅してしまったのではないかと想像したのですが、如何なものでしょう。また、当時のトラックには部隊配備機の他にも百機以上の機体が航空廠に保管されていたとのことなのでこの中にあったのかも知れません。
「一発でB24は四散した」との話もあるにはありますが、この手の新兵器につきものの伝説ではないかと疑っています。
BUN
舞弥
出先の航空廠が独自に改造したのなら型式は受領時のものと同じになりますね。
しかし30ミリ機関砲までトラックに部品として送られていたとは驚きです。
(ひょっとして小園さんが月光に取り付けようとして取り寄せたかな?)
これは想像ですが↑3.で指摘していただいたように先に送られた30ミリ装備の零戦2機の具合がよかったため航空廠にあった30ミリを、新しく受領した零戦に装備したというのはどうでしょうか?
またその後の推測ですが、2航戦、26航戦のいずれかの部隊に配備されたのは
確か(2航戦は空母搭載の航空隊のため可能性は薄いと思う)と考えますが
204空は1月末にトラックへ移動しているため、253空がクサイのではないでしょうか?
源五郎
17機という機数が本当だとすれば、ラバウル最後の増強部隊であった2航戦の戦闘機隊24機につぐ増強なので、まず記録が残るであろうと考えました。
BUN
また機会が有れば防衛庁の戦史図書館でこの記事のウラを探ってみます
ありがとうございました
源五郎
ありません。くせのある機体が配属されたら感想が残りそうなのでもし到着していれば
204空ではなくて航空廠にあったのではないでしょうか。
17日の空襲で柴田司令は204空搭乗員に航空廠のものでもいいから
乗って発進せよとの命令を出したそうですから、もしかしたらこの日グラマンと
交戦している機体があるかもしれません。
こういち