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453 20年ほど前に読んだ本の中で、三菱・堀越設計チームが、14試局戦(雷電)と平行して「15試艦戦」というのを
作成したと書かれていました。(題名、著者、出版社忘却。子供向けの文でした。)
なんせ小学生だったもので、あまり詳しくは覚えてないのですが、その開発課程は
・12試艦戦(零戦)を作ったものの96式艦戦と比べて運動性がやや悪かった。
・20ミリ機銃の信頼性が悪かった。
・そこで海軍は零戦以上の運動性、零戦より小さい機体寸法、7.7ミリ2丁、12.7ミリ2丁、517km/h
 を求めた15試艦戦の試作を指示した。
・この機体の作成自体堀越氏自身(要求性能の仕様が)不本意であった。
・しかし作成したものの要求性能を満たすことが出来ず、結局不採用となった。
というものと記憶しております。
写真も一枚載っており、「零戦より丸っこいな」と思った記憶があります。直線上反角なので烈風とは違います。
ところが、そのあと歳を経てからどの本をみても「15試艦戦」の記述に付いては書かれていませんでした。
堀越氏本人の書かれた朝日ソノラマ「零戦」を見ても、「20試甲戦」は載っているのに「15試艦戦」
の事に付いては全く触れられていません。
アレは何か別の機体の誤認を本の著者が思いこみと創造で書いた幻だったのでしょうか。
それとも作成自体気に入らなかったため、堀越氏自身の中で封殺してしまったのでしょうか。
「15試艦戦」についての情報をお知りの方、宜しくお願いします。
ツチノコ

  1. 私が調べたなかで「十五試」にあたる艦戦・局戦はありませんでした。
    九六艦戦を複座化した「十五試練戦」のことではないでしょうか?
    http://www.platon.co.jp/~vought/data/jp/htm/A5M4-K.htm
    脚カバーが切られているので、ぱっと見ると引き込み脚機にも見えます。
    しかし背の高い遮風板が二枚もおっ立っているので、これを単座の
    戦闘機と間違うことは考えにくいのですが…。

    ささき

  2. 15試艦戦の話は聞いたことが無いですね。16試ならあるんですが。
     試作内示が15年末に三菱になされたので、これとの混同では
    ないでしょうか。
     しかしこの時期、堀越チームは雷電にかかりっきりの上、
    零戦の改良までこなす大変な時期であったため、見送っています。
    (以上、丸図解「雷電・烈風・百式司偵」より)


    SADA

  3. 正体不明の機体と言えば、中島十二試艦上戦闘機A6N1、という機体が海軍飛行機符号一覧表(20年4月11日海軍航空本部)にA6M1の前に記載されています。どんな機体か前から気になっていました。Aに続く数字は原則的には海軍全体の開発ナンバーですからハインケル112はA7He1でしたが、普通、重ならないはずですよね。
    BUN

  4. ↑重なってる例は多々あります
    特に競争試作では基本的に同じ番号です>97艦攻とか、95水偵後継とか

    機種記号+番号は、その時点での海軍の要求仕様を示すと思えば理解出来ます

    SUDO

  5. >15試艦戦
    ささきさんの説+SADAさんの説 というのが近いのかもしれません。
    というのは、ちょっと思い出したのですが、この本は96式艦戦以前の話は全く触れられていませんでした。本中で「『こんな飛行機を作りたいと思う』と堀越技師のさらさらと描いた(12試艦戦の)3面図を見た関係者は驚いた。何故なら誰もが彼が布貼りの複葉機を作るものと思っていたからだ」と、今から見ればなんじゃそりゃ〜な内容のものでした。筆者はどうも7試も9試も知らなかったようです(当然烈風については影も形も出てきません)
    # 子供向けと言うことで意図的に略してしまった可能性も無くはありませんが
    (よって質問文中の「96式艦戦と比べて」という9文字分は記憶違いです)
    すると、96式艦戦の派生系は、ドボアーチン520の首すげ替え機とか、翼内機銃装備実験機とか結構ありましたから、それらのどれかを見て筆者が間違えた。更に15年中に出された16試計画や、実際にあった「零戦の翼内機銃を12.7mmに転換せよ」という主張とが重なり、「幻の15試艦戦」という形で現れた。という可能性はあるのかな、とも思います。

    しかし一体、細かく書かれていた要求仕様はどこから出てきたものでしょう。
    烈風17試の元となった16試計画は「見送りになった」という事くらいしか私は知らず、
    要求性能については見たことがありません。上記の「15試艦戦」に近いものだったのでしょうか?
    (もし提示性能まで筆者が作ったんなら悪質)

    謎はまだ深いなぁ。 本の名前と出版社を思い出せたらいいんですけどね。たしか黄緑のカバーの表紙で、いろいろ歴史とかが書いてあるシリーズ本の中の一冊、題名の中に「第二次世界大戦」の文字が入ってたと思います。


    A6N1>
    ちなみに、97艦攻は三菱と中島の両方が採用されたので、 B5MとB5Nがあります。
    A6Nということは零戦と同じ12試艦戦計画ということですよね。
    中島は途中で競争試作を降りたとどこの本にも書いてあるんですが、もしかして1機くらいは
    作ったんでしょうか。
    まさか、隼を海軍でも使ったとか....
    中島製零戦をA6Nと言ったのかな。それもおかしな話だし。
    しかしHe112でA7を使っといて、ずっと後になって烈風でA7を使うってのもいいかげん..
    ツチノコ

  6. 「部分写真クイズ」に写真を載せていますが、アメリカから
    輸入したセバスキー 2PA-B3 は「A8V」という型版がついて
    いたそうです。輸入機は別枠扱いだったんでしょうかね?

    ちなみにアメリカではアメリヤ・イヤハートの遭難は日本軍が
    関係していたという説が今でも根強いのですが、この間TVを
    見ていたら「日本軍は偽の無線でアメリヤを別の島に着陸させ、
    奪ったロッキード・エレクトラの技術で零戦を作ったのだ。
    私は終戦直後に日本に居たが、当時の関係者から事情を聞いた。
    零戦の図面も見たが、明らかにエレクトラから盗んだ技術が
    使われていた!」と「証言」する人が出てきて呆れました(-_-;)

    セバスキーやヴォートの戦闘機を正規の手順で輸入している
    国が、何を好き好んで有名人の乗った民間機を奪う必要が
    あるんだか…。

    ささき

  7. ↑噴飯物の本ですなぁ(T_T)。大体エレクトラって立川ロ式輸送機やんけ。ライセンス生産権持ってるものをなんで強奪せなあかんねん。
     そういや他の本で「アメリア機はゼロに墜とされた」などという記述もあってんで。そんなに技術が早回しになっとったら敗けやせんがな。
    Schump

  8. セバスキー複座戦闘機の略符号はなんとA8V1、そうか、烈風の後継機だったか・・・。
    BUN

  9. ↑その割には朝日新聞社に払い下げ・・・しかも、確かセバスキー購入の動機は駆逐機思想に近いものであったはず。懲りてたら月光はボツにしたはず(陸偵なら百式を借りてくればいい。実際やったし)。
    Schump

  10. 小福田少佐の著書によると、セバスキーは使い勝手と実用性の高い飛行機で
    「セバちゃん」と呼んで前線ではそれなりに愛されていたみたいです

    月光も「セバちゃん」みたいな万能機としての狙いも有ったのでしょう

    おおう、議論ボード壊した万能双発戦闘機思想に近いモノが有るな(^^;;

    SUDO

  11. 「セバちゃん」には爆笑しました(^o^)
    しかし 2PA というのは早い話が米陸軍 P-35 の複座型ですよね?
    日本の飛行機マニアに言わせれば「零戦・隼の前にはひとたまり
    もなかった駄作戦闘機」ですが、エンジンは 1,000hp 級の傑作
    R-1830 で、この頃必死になって「栄」を開発していた日本とは
    エンジン技術に格段の差があったことを思い知らされます(;_;)

    ささき

  12. 海軍の試作内示命令の中に、「12試艦上戦闘機は武装、航続距離過大なので、より小型で軽武装、短い航続距離の軽戦」を研究するように、
    とかあって、堀越技師が性能計算などをしたけれども発展性や12試艦戦に比べて有利な点が少ないので、改めて12試艦戦の成功を確信した。
    とかどかの本に記述を見たことがあります(意味なしれす)
    Navy

  13.  ちなみにセバちゃんは昭和12年に20機購入、うち2機が昭和13年に朝日新聞社に、1機が、笹川良一氏経由で昭和16年に毎日新聞社に払い下げられています。
     原型P-35は民間型がベンディックス杯米大陸横断レースに優勝するなど、信頼性・安定性ともに優れていたようで、複座型セバちゃんが偵察機・高速連絡機として愛用されたというのも肯けます。でも戦闘機としては駄目。改造されて「和製デファイアント」にされなかった分マシか。
    Schump

  14. 初めに断っておきます。これは「うろ覚えレス」です(笑)
    私の記憶では、零戦の後継機が十五試艦戦で、名前通り昭和15年に試作指示が三菱に対して出されたのですが、当時の三菱は十四試局戦(後の雷電)の開発と零戦の改良に多忙だったため、この試作指示を断り、少し手の空いた昭和17年になってから、改めて十七試艦戦(後の烈風)として試作されたということだったたと思います。
    もちろん、何の本に書いてあったかは覚えていません!(爆)
    胃袋3分の1


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