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451 日本軍は4発機の開発にことごとく失敗しています(2式大艇除く)が、どこがネックでだめだったのでしょうか。双発の開発と比べて飛躍的に高度技術が必要となるところはどこですか。
JXJ

  1. 実用化できたものとしては、2式大艇の先代、97式大艇を
    忘れちゃいかんでしょ。川西好きとしては非常に遺憾です(笑)

    それはともかく、開発そのものを言うなら、海軍の連山は
    完成とみていいでしょう。(陸軍は疎いのでフォローお願い)
    技術的な問題点は一通り乗り越えたと思いますが?

    ただ、それを実用化できなかったのはひとえに日本の基礎工業力、
    資源調達力の弱さによるものです。連山の姿が見えてきたとき、
    日本は1機の大型爆撃機を捨ててでも、多数の戦闘機を必要と
    していたのです。

    SADA

  2. ダブル主車輪を自主開発できなかったのは大きいでしょう>4発がむずかしい
    Navy

  3. 日本機って、欧米の同程度の機体に比べて軽いから、
    シングル車輪でなんとかならんのかな?
    SADA

  4.  関わった方々には申し訳ありませんが、本気でやる気がなかった、というのもあるのではないでしょうか? 日本では、膨大な量の資材を使う4発以上の機体を軍が非常に嫌っていたようですから。
     中島飛行機の深山・連山・富嶽といった巨人機シリーズは、自主開発的要素が強いですし、陸軍では九七式重爆、呑龍、飛龍と、双発機ですら資材を極力節減するような要求が出されていたと聞きます。
    FIX

  5. ↑確か、一式陸攻の計画段階でも、三菱側の金星4発案を海軍がボツにしてますね。防弾タンクをあきらめた原因のひとつがそれによる出力不足だったとか。
    Schump

  6. 陸攻とは空母の排水量が条約で制限されていた時代に、なんとか不利を
    挽回しようと考え出されたものです。本来の「条約に規制されない陸上
    航空兵力を使って敵艦隊を攻撃する」という目的からしますと、一式
    陸攻が双発である必然性は高かったと思います。4発ですと、雷撃に
    要する運動性が満たせませんから。

    ただ、その条約の効力が無くなったときに、上記のドクトリンは考え直す
    必要が有ったと思います。
    この辺は議論ボードの過去ログにあったんだけど・・・消えたかな(^^;;

    SADA

  7. それに滑走路ですよ。滑走路を忘れてはいけません。当時の日本では連山クラスを重装備で発進させるには専用の飛行場が必要でした。末期には実際に連山専用飛行場が建設されています。
    BUN

  8. ↑ってことは、量産する気があったのか!?(驚)
    SADA

  9. 建築機械の無い日本軍では飛行場の大きさは重要ですな。
    1式陸攻は魚雷搭載の便宜を考えて,地上角を小さくしたら,離陸滑走距離が長くなったと不評だったし。
    銀河は600mで離着陸できるようにしろ!という要求で米軍の同級機Bー20やA-26にくらべ
    大きな主翼を持たざるおえなかったわけで,,,。
    Navy

  10. 1式の4発案は「断固として拒絶」されたそうで・・・・
    大艇大量装備計画もあったんで、それが陸上4発の開発ペースを遅らせていたのでは?

    tow

  11. 連山を量産する気があったか、というより、19年末以降、特攻機と一部の戦闘機を除き他の計画機が軒並み中止される中、量産の発注が実際に出されていて、20年上期に32機の量産を見込んで増加試作機を生産中、終戦直前の20年6月に至って中止されていますが、実際には中止というより当時の現実に合わせた形で継続されていたようです。
    BUN

  12. 連山は日本の陸攻の伝統にしたがい53センチの2トン魚雷2本を搭載する遠距離雷撃機なのですが、最後まで量産計画が存在した理由としてはマリアナへのほぼ唯一の攻撃手段だったことが想像されます。暁のサイパン島アスリート飛行場に、空を覆わんばかりの我が32機の大編隊が殺到し、3号爆弾を降り止まぬ豪雨の如く投下し続けることを想像し胸躍りますが、まあ、戦果は3機破壊、15機損傷といったものなのでしょう・・・。
    BUN

  13. ふと思ったんですが
    連山を量産して、何に使うつもりだったんでしょう?

    SUDO

  14. あ、しっかり答え出てるし(^^;;
    タイミング悪かったのね(;_;)

    でも、なんか、コジツケに近くないですか?
    零戦に増槽2つ3つ付けて片道でやれば出来そうですよね
    カミカゼ始めちゃった連中ですから・・・・

    これは技術者としての良心だったのか>剣も同じメーカーだけどね
    それとも景雲と同じで、開発継続させるための方便だったのか

    SUDO

  15. ふと思ったんですが
    連山を量産して、何に使うつもりだったんでしょう?

    SUDO

  16. ところで、陸軍の方はどういう状況だったんでしょうか?
    SADA

  17. 二十年に入ると企業の国家管理が始まり、三菱、中島等の企業間の確執は開発にあまり影響しなくなります。ですから、中島の都合で連山計画が生き残った可能性は低い、と考えています。さて、最後まで生産準備が続けられていた中、二十年六月後半に連山の中止は航空本部によって決定されましたが、軍令部は本土決戦にあたり、鋼製連山であれば量産可能と判断し、連山によるB29発進基地の攻撃を優先的に計画しており、同時にインド洋方面への洋上補給路攻撃による本土上陸兵力の欧州からの輸送妨害が企画されていたようです。こんな時期にこういうことを発想する人物は誰かと思うと、案の定、黒島亀人参謀でした。
    BUN

  18. 陸軍の方は、と言っても連山は陸海軍協同試作機となっているので陸軍最後の4発重爆は連山だった可能性もあるわけです。航空機開発での陸海軍の協同関係は通説に反し、いくらでも事例が見つかる程で、例えばキ八五は深山のことです。川崎で開発が進められ、完成を見ないまま20年2月に中止された一回り大型のキ九一も陸海軍協同試作でした。これを連山の見通しがついた為に早期に中止、と見るか、20年に入ってまで本気で取り組みが続けられたと解釈するか?ですが、専用工場の建設まで着手されていた以上、4発重爆は陸軍においても最後まで重視、期待されていた、と見るべきでしょう。
    BUN

  19. >零戦に増槽2つ3つ付けて片道でやれば出来そうですよね

    通常の単発戦闘機に増槽2つまで就ければ,航続距離が伸びるそうですが,3つ以上だと
    抵抗が増すのと重量増加で巡航時の燃料消費量が増してぜんぜん伸びないそうです。
    Navy

  20. なるほど、では零戦で片道特攻ってのは難しいのかな?

    まあ、連山量産は、特攻より、ずっとマシなんですけど
    32機で迎撃戦闘機のコトは考えていたのかな・・・・
    護衛戦闘機はどうするつもりだったのでしょう?

    SUDO

  21. ↑零戦でサイパン島への片道特攻は実施されてますが(第一御楯隊)、効果が薄いので
    以降実施されていません。そのため連山による通常攻撃を企図したのではないでしょうか。
    (硫黄島失陥前には海軍の一式陸攻、陸軍重爆隊による通常攻撃が行われており、これは
    一定の効果を上げていると判断されていました)。

    大塚好古

  22. かわいそうなキ74。どのみちマリアナ行きに関しては、連山が出てくるまでの穴埋め君だったのね。登載量が少ないから当然だけど。
    Schump

  23. ↑↑↑そのために「遠戦」キ83を開発したのでは?
    ささき

  24. 陸軍の戦闘機研究方針は、戦闘機を重戦、軽戦と区別することを止め、近距離戦闘機と遠距離戦闘機に変更しています。キ83はそうした流れの中で開発が続けられた機体なのですが、末期のあの状況下でしつこく開発が続けられていた背景には、文献的には何も残されていないようですが、マリアナ攻撃があった可能性も十分考えられる、と思います。
    BUN

  25. なるほどっ!
    永年の疑問が一気に解決した感じです

    まさしくドロナワだったのですね(;_;)

    SUDO

  26. >通常の単発戦闘機に増槽2つまで就ければ,航続距離が伸びるそうですが,3つ以上だと抵抗が増すのと重量増加で巡航時の燃料消費量が増してぜんぜん伸びないそうです。

    確か沖縄戦の時に244戦隊が、五式戦に増槽2本では知覧から沖縄まで特攻機を援護できないために3本積めるように改造したけど、本土決戦に備えての後退命令が出て試せなかったらしいのですけれど、3つ積んでも結局沖縄までは行けなかったのでしょうか。増槽は使い終わった時点で捨てていけばいいのだから、できるだけたくさん(離陸さえできるのならば)積んでいた方が少しでも航続距離は増すと思うのですが。

    yari

  27. その積んでいる間の抵抗がとんでもないんでしょう。増槽の空気抵抗
    だけではなく、増槽を追加した分だけより多くの揚力を出さなければ
    浮けない以上、仰角が増して抗力が増えるのです。
    1000馬力〜2000馬力の機体では、2本が限界ということだと思います。
    SADA

  28. 回答番号18について。キー91って富嶽計画に見切りをつけた陸軍が勝手に
    川崎に発注したもので、共同開発では無いと思いましたが?
    三番爆弾

  29. 18年5月頃に、両航空本部によって陸海軍協同試作機に指定されています。こうした機体、事例は大戦後半には非常に多くなります。末期には東海、金星搭載疾風など、意外な機種が指定されていますので、当時のそれぞれの機体への評価がうかがわれます。
    BUN


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