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209 戦時中、艦上機乗りだったと言う祖父の話(私が10歳のとき死亡)に、「捕獲したグラマンを操縦したが、操縦桿は重いわ、操縦性が悪いわで怖くてしょうがなかった。」と言う話があったと記憶しているのですが、グラマン社製の機体が捕獲されたことはあるのでしょうか。それとも「敵機」と言う意味でグラマンと言ったのでしょうか。

  1. 終戦時に横空に進駐してきた米軍の撮影した記録写真に日の丸を描かれた飛行可能なF6Fの入ったものを見かけたことがありますが、、それ?


  2. 快進撃の大戦初期には連合軍側が泡を食って機材も破壊せず撤退したので、グラマンF4Fなら一般搭乗員が試乗できるほど捕獲されていたのかもしれません。P-40は大量に捕獲され日の丸つけて再配備されていたとか(ささき)


  3. 横須賀航空隊にF4Uの主翼が保管されていた、との回想を読んだことがありますが、F4Fですら捕獲機は無かったのではないでしょうか。バッファローやP40なら可能性はありそうですが、あれは陸軍が捕獲しているようだし、でも貴重な証言だと思います。御祖父の部隊等、他には判明していることはありませんか?BUN


  4. 確かにミリタリーエアクラフトの写真で日の丸のF6Fがありますので(放置されて若干損傷していますが、程度は良好に見えます)、本土空襲機の不時着機でも捕獲したんでしょうか?(F4Uも外見は見事な状態の不時着機を回収の為、主翼を折り畳んでる写真が残ってます)、記録に残ってないけど、現場の整備員が修理して飛ばした機体があるのかもしれませんね^^


  5. 戦時中の捕獲機については日本航空機総集・輸入機編に記述があります。しかし、この記述以外にも大戦末期に日本本土や当時の日本領地内で、米軍のかなり程度の良い不時着機を何機か手に入れていたようです。横空のF6Fもこれらのうちの一機だと思います。私が知る同機の写真は脚を入れた不時着状態で撮影されているので、試験飛行時のトラブルでも生じたのでしょうか。(台湾で19年秋頃に程度の良いF6Fを手に入れていますが、ひょっとしてこの機が横空へおくられたのかとも思います)


  6. 不勉強で申し訳ありません。ミリタリーエアクラフトの何号にF6Fの写真があるのでしょうか。是非見たいので、お願いします。BUN


  7. ↑ゴメンなさい、何号か忘れた(買ってないんですよ^^;)、確か去年に出た号だと思います。こんど本屋いったら確認して見ます。


  8. (追記)下の方の「私が知る同機の写真は脚を入れた不時着状態で撮影されている」と、私が見たミリタリーエアクラフトの写真はたぶん一緒です。(右側面からの写真ですね)


  9. 私が見た・・云々の書き込みをした者です。件の写真を初めて目にしたのは、25年位前の”丸”誌でした。また最近(ミリタリー・・誌は私は見ていないので)何かで見た記憶があるのですが、思い出せません。たしか、尾翼あたりに米兵が立っていたような。ところで少し前の


  10. (↑切れました)の”航フ”誌に鹵獲したP51の写真が発表されましたが、台湾で不時着した、これまた程度の良さそうなP47の写真も掲載されましたね。これなど、なぜリペアして飛ばさなかったのでしょうか。本土に移送してキ87や94の参考にしたという話も聞かないし。火本軍


  11. (ごめんなさい。また切れた)日本軍の鹵獲機に対する見識はいったいどうなっていたのでしょうか。・・・原人


  12. 緒戦の勝ち戦の中で捕獲した機体では、速度や上昇力や操縦性能など表面的な性能ばかりを評価して(それで国産機の方が優れている事に気を良くして・・・ただB-17は例外)、中身の艤装や構造や優れた製造品質の面には殆ど目を向けなかったそうです、ただ調査に当たった技術者達は使われている部品の品質や艤装の優秀さに気づいて「こりゃ偉い国と戦争になった」と感じていたそうです。


  13. 日本の低オクタン価ガソリンで計測したから外国機が低性能に見えたのでは?


  14. 緒戦に捕獲した機体はハリケーンやP−40の様な元々性能が良くない機体ばかりですから^^;・・・後半に中国大陸で捕獲したP-51Cは流石に評価が高くて飛ばした審査部のパイロット達を唸らせてますね。(模擬戦で全力出すと対抗の日本機が勝てないそうです。まあ、乗ってるパイロットの腕もいいのですけど・・)


  15. そのP−51Cも発電機が壊れたら日本じゃ使える部品が無くて飛べなくなった・・・・情けない^^


  16. 皆様回答ありがとうございました。その後よく考えてみたのですが、この話は祖父の友人二人が来宅した際に私が同席したときに聞いた話だった様な気がします。ですからこれが祖父の口から出た言葉だったかちょっとはっきりしません。このときほかに「零戦の栄はオイルがすぐ上がって困った。」とか、「魚雷は相手の未来位置に向かって撃つんだ。まっすぐ撃ってもあたらない。」と言う話がありました。このとき話を聞いた方は愛知県の豊橋と言うところにみえたそうですが、旧海軍の航空機基地があったのでしょうか。


  17. 戦時中、空技廠に勤務していた模型店店主の方(逗子の航研堂、贔屓にしてやって下さい)に話をうかがったところ、残骸はあったが、飛行テストをしていた記憶は残念ながら無い、とのことでした。残念。BUN


  18. P−51を飛ばすときはハイオクガソリンをつんだ貨車がついて回ったそうです。


  19. 丸エキストラの最新号に、鹵獲したP―51を操縦したパイロットの方の記事が再録されていますが(もとは昭和37年に掲載されたもの)、べた褒めですな。(N)



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