東京飛行場(羽田)

投稿者:くろねこ 投稿日:2000/12/14(Thu) 16:23:29

 東京飛行場は、逓信省が昭和4年以降3ヶ年の継続事業として新設を計画、東京府羽田町鈴木新田所在鴨猟場の北側16万坪の埋め立て地を予定地に選定して、昭和4年工を起こし、昭和6年に至って竣工、同年8月25日これを東京飛行場と名付け、公共飛行場として開場した。(滑走地点南北630m、芝生、誘導路・回転地点・エプロンはコンクリート、格納庫は2棟)なお場内には昭和7年2月高層気象観測所が竣工を見た。

 その後、航空機の高性能化に伴い、国際級の飛行場は30万坪以上とすることを目標として、幹線用飛行場拡充計画がたてられ、その一環として昭和13年12月東京飛行場の拡張工事が開始された。この工事は翌14年3月30日に竣工し、その面積は213,438.88坪になった。なおこの間、日航は立川へ一時移転していた。また従来、東京無線電信局で取り扱っていた航空通信業務が、飛行場に新設された羽田無線電信局に移転されたほか、(6月1日開局)夜間照明施設も大きく改善された。(昭和8年秋に中島P1郵便機を用いて、東京−大阪間夜間郵便飛行が開始されたが、当時飛行場には滑走路灯がなく、周辺に赤電灯と場内に滑走地点を照射する照明灯(探照灯?)があるだけだった。)

 日本航空輸送は昭和3年から6年の羽田開場まで、立川飛行場を使用していた。また羽田改修期間中の昭和13年11月11日には日本航空輸送→大日本航空への改編が行われている。
投稿日:2000/12/15(Fri) 15:37:09

 昭和6年8月25日、華やかな多数の人達に見送られた旅客機が、開港1号機として西の空に消えていった。開港当時は、気象台、円形ターミナル(待合室)、格納庫2棟のみであったが、昭和8年までに、東西に面して、海老取川寄りから日本飛行学校、報知、毎日、朝日各新聞社の格納庫と中央気象台羽田分室、また海老取川に水上機発着所が設けられ、また南北滑走路に面して、日本航空輸送東京支所の円形モダンなガラス張り待合室1棟、格納庫2棟があった。

 滑走路は、土地が年度混じりの砂であったため、この上に約60センチの高さに黄色の粘土を敷いて地均しし、この上に芝生を敷いた。滑走路工事は昭和6年4月には完成し、格納庫、事務所等の建築を終え、8月24日には立川より一切の移転を完了し、翌25日から同飛行場の使用を開始した。