投稿者:くろねこ | 投稿日:2000/12/14(Thu) 16:23:29 |
昭和6年8月25日、華やかな多数の人達に見送られた旅客機が、開港1号機として西の空に消えていった。開港当時は、気象台、円形ターミナル(待合室)、格納庫2棟のみであったが、昭和8年までに、東西に面して、海老取川寄りから日本飛行学校、報知、毎日、朝日各新聞社の格納庫と中央気象台羽田分室、また海老取川に水上機発着所が設けられ、また南北滑走路に面して、日本航空輸送東京支所の円形モダンなガラス張り待合室1棟、格納庫2棟があった。
滑走路は、土地が年度混じりの砂であったため、この上に約60センチの高さに黄色の粘土を敷いて地均しし、この上に芝生を敷いた。滑走路工事は昭和6年4月には完成し、格納庫、事務所等の建築を終え、8月24日には立川より一切の移転を完了し、翌25日から同飛行場の使用を開始した。