投稿者:くろねこ
昭和6年10月、日本航空輸送はフォッカー3m機、ドルニエ・ワール飛行艇を用い、東京−台北間の試験飛行を、台北練兵場を使用して行った。この成功に刺激され、台湾総督府当局の貯金局が主務となって、台北市郊外松山庄に飛行場が建設されることになった。
飛行場用地は湿地帯の水田が多く、整地と排水工事が非常に困難であった。飛行場の東側に台湾神社があり、また山が近くにあったため、離着陸の障害となる可能性もあったが、当初の予定通り工事が進められた。そして昭和11年3月に、滑走路及び付属建物が完成し、開場式が行われた。
(以下は大日本航空時代、昭和15年頃)
当時の台北飛行場は、基隆市と台北市の間にある大平原の中央にあった。飛行場は大滑走路(コンクリート)2本を持つ立派なものであり、その一角に、平家鉄筋コンクリート造りの事務所が、小さいながらもモダンな装いをこらしていた。
事務所を中心に、格納庫2棟、整備員作業所、器財倉庫、職員食堂等があった。また別棟には台湾総督府逓信部の飛行場管理事務所があった。管理事務所の2階には気象観測室、税関、警察官詰所があった。会社の事務所は、旅客待合室、乗客及び手荷物検量所、営業室などが大半のスペースを占めていた。その裏側には庶務、経理、運航室などがあった。またエプロン側には、張り出しの総ガラス張りの検量、検査施設があり、ここでは乗客・手荷物・貨物の重量を計測していた。当時、支所の職員は事務・整備員あわせて数十名を数えた。
大日航の台北営業所は台北駅近くにあり、職員は送迎バス運転手3名をあわせて10名足らずであった。バスは3台を保有し、乗客は一旦営業所に集合し、無料で飛行場に送迎された。
内地と台湾を結ぶ路線は、那覇と上海の2経由があったが、乗客には圧倒的に那覇経由が人気があった。
参考資料/松長修一氏(元大日航職員)の回想録