投稿者:くろねこ
飛行場が整備されていなかった航空の黎明期、飛行機の離着陸は主に練兵場、競馬場、砂浜、原っぱなどで行われていた。関西では、大阪市の城東練兵場、兵庫県西宮の鳴尾練兵場、京都市の深草練兵場の3つがよく使用された。
城島練兵場は、関西での最初の飛行となったアメリカのボールドウィン飛行団のマースが明治44年(1911年)3月、持ち込んだカーチス式複葉機で飛行を見せた場所である。以後、同練兵場は飛行のパイオニア達の舞台となった。同年4月には森田新蔵が自作単葉機の試験飛行に成功し、また大正4年(1915年)12月にはチャールス・ナイルスが宙返り公演を行っているほか、同年2月には陸軍機が5日間かけて所沢から飛来したりした。
大正8年(1919年)4月、城東練兵場は帝国飛行協会主催の東京−大阪間懸賞郵便飛行のゴール地点となった。さらに明くる年の大正9年4月の東京−大阪無着陸周回飛行競技の際には、その折り返し点となった。同年5月には外国からの訪日一号機となったイタリアのSVA2機が飛来している。
大正11年(1922年)11月、同練兵場は帝国飛行協会主催の東京−大阪間一週間連続郵便飛行大会の舞台となったが、この競技は定期航空のテストともいえるものであった。そして翌年1月、朝日新聞社をスポンサーとする東西定期航空会は、東京・洲崎と大阪・城東を結ぶ定期航空(郵便)を開設し、城東練兵場には定期便が発着するようになった。初日の11日には、皇室に献上する鮮魚の籠と阪神地区の名士のメッセージ、一般の無料託送小荷物18個(約47s)が輸送された。練兵場には初めはテント張りの格納庫が設けられただけだったが、やがて鉄骨張りの格納庫と事務所が建設された。なお東西定期航空会による旅客・貨物輸送は昭和3年(1928年)8月からドルニエ・コメート式旅客機を用いて開始されている。
その間、同練兵場は訪日機の飛来(仏ドアジー大尉のブレゲー14型など)や朝日の訪欧機ブレゲー19型「初風」「東風」の飛来などで湧いたこともあった。
昭和4年(1929年)4月、東西定期航空会が解散し、定期便や訪日機は木津川を離着陸するようになった。城東練兵場には朝日と毎日の報道機が残るのみとなったが、その報道機も伊丹飛行場の開港に伴い、伊丹に移っていった。
その後、飛行場としての役割を終えた城東練兵場跡には、大阪砲兵考工廠の大きな工場が建てられたが、その工場は空襲により廃墟と化した。