阪神飛行場(八尾)

投稿者:くろねこ 投稿日:2000/12/15(Fri) 16:27:37

 阪神飛行場の基になったのは、昭和13年6月10日同地に開校した阪神飛行学校であった。同飛行学校は、京阪神地方の防空用飛行場を建設し、併せて航空機乗員を養成するという趣旨で、大阪の第4師団司令部の主唱の下に、京阪神の財界有力者の賛助寄付を求めて計画された。その結果、450万円の寄付金が集まり、これをもって、大阪府中河内郡大正村字太田に敷地が選定され、昭和13年1月から建設が進められた。
 
 昭和13年春には早くも飛行場と飛行学校の施設が完成し、同年6月10日開校式が行われた。当時の飛行場の規模は、東西810m、南北525mの、東北の一端が少し欠けた矩形で、面積は約10万坪であった。また滑走路は細腕はなく展圧整地しただけであった。学校としての施設は、本部事務室、400坪の格納庫(鉄骨製)1棟、学生寄宿舎、機体整備工場、発動機整備工場等を完備し、練習機も陸軍を通して調達した95式練習機を10機備えていた。

 その後、航空局からも乗員養成を委託され、米子乗員養成所阪神分教場として、その教育にあたった。また学生寄宿舎が1棟、木造格納庫が増築され、練習機も増えた。同飛行場は学校専用であったが、陸海軍機もよく飛来し、演習にも使用された。

 戦時色が濃くなってきた昭和15年8月、陸軍は同飛行場を阪神地区防空用飛行場として使用するため接収を行った。接収後の阪神飛行場は、陸軍の手で大拡張され、1,568m(幅100m)と1,271m(幅100m)の2本の滑走路を持つ大飛行場となり、戦闘機隊が配備された。

 戦争末期には米軍機の爆撃を受け、格納庫群や施設のほとんどが破壊された。戦後は米軍に接収され、返還後、阪神飛行場の名で呼ばれていたが、その後八尾飛行場と呼ばれるようになった。

参考資料/小森郁雄氏(元同校職員)の回想録