宇佐海軍航空隊基地

投稿者:ごるぴぃ 投稿日:2001/01/03(Wed) 13:40:43
旧海軍の「宇佐空」の基地が、現在の大分県宇佐市
四日市の近く、現柳ヶ浦高校のそばにあったそうです。親父(終戦当時13歳)がそこに掩退壕掘りに動員されていたそうなので、多少詳しく訊けそう
です。
投稿者:ごるぴゐ 投稿日:2001/01/25(Thu) 02:36:21
まず、宇佐海軍航空隊のはなしです。インターネットを検索していたら、
そのものズバリ「宇佐航空隊の世界」というHPがありました。
http://www.coara.or.jp/~nazuna/koku.htm

ここに「宇佐航空隊の世界」(今のところ四巻)という本が出版されていると
書かれています。「桜花」の噴射管を発掘した写真なども…
http://www.coara.or.jp/~nazuna/koku-g.htm

「帝國陸海軍現存兵器一覧」HPから。
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki7/usa/usa.html

掩体壕一基、宇佐市指定史跡にされています。これは宇佐市城井にありますが、
飛行場自体は柳ヶ浦地区にあったようです。ここにHPがあります。
http://www.buzenkids.gr.jp/entaigo/

それから同市江須賀に忠魂碑があるそうです。
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/9804/0417k.html
大分県 宇佐海軍航空隊について 投稿者:ごるぴゐ 投稿日:2001/01/22(Mon) 05:14:54
昭和十二年 三月二十九日 昭和十二年度海軍補充計画(第三次補充計画、通称B計画
 )が第七〇通常国会において協賛、この計画に基づき宇佐
 に海軍航空隊の開隊が推進された(仮称 柳ヶ浦海軍航空
 隊)

  五月 十二日 柳ヶ浦村会において飛行場設置について協議
 飛行場買収評定委員五名を選出

  六月 十八日 宇佐海軍航空隊と改称

  七月 十六日 村会「飛行場名ニ関スル請願書顛末報告」
(「柳ヶ浦町史」によると、内容がわからないとある)

  七月二十二日 村会において航空隊開隊協賛を決議

  八月 十八日 村会に飛行場付属工場誘致のことが議案に上る

昭和十四年 四月  八日 萬里麻飛行場委員、杉本中佐来場の状況を村会に報告

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 一〇月  一日 宇佐海軍航空隊開隊(初代司令 内田市太郎大佐)
(※十一月開隊説もあり)・艦上攻撃機および艦上爆撃機の練習航空隊。呉鎮守府所属
・規模 (東西)一二〇〇m (南北)一三〇〇m
・滑走路 三〇m×一一五〇m
・隊員数 司令以下約八〇〇名
(「柳ヶ浦町史」によると、木造二階建ての庁舎、六つの格
 納庫、正門は、現柳ヶ浦高校の「北門」)

 一〇月三十一日 最初の練習生として第四十七期操縦練習生が、霞ヶ浦海軍
 航空隊から入隊

 十二月  一日 第十二連合航空隊発足、大分海軍航空隊内に設置
(初代司令 寺田幸吉少将)宇佐空も編入される。

 十二月二十五日 甲種第二期予科練習生二十九名(艦攻二〇名、艦爆九名)
 土浦海軍航空隊から入隊

昭和十五年 一月 一〇日 甲種第二期予科練習生の実用機による飛行訓練開始

  一月  末  第四十七期操縦練習生 卒業

  二月 ニ〇日 空母「龍驤」を使用して第十二連合航空隊所属の艦上機、
 着艦訓練開始

  二月二十九日 夜間訓練飛行中「九七式艦上攻撃機」一機、航空隊付近の
 田に墜落、二名殉職、一名重傷

  四月  六日 柳ヶ浦村会において航空隊職員住宅(海仁会)建築契約
 に関する件、議決
 柳ヶ浦村の町制陳情の件

  七月  一日 柳ヶ浦村、町制に移行

 一〇月 十五日 第二代司令 松岡知行大佐着任

昭和十六年十二月  八日 太平洋戦争勃発
 宇佐海軍航空隊の戦力(定数)
 艦上攻撃機 六十三機、艦上爆撃機 三十六機

 十二月二十八日 空母「飛龍」「蒼龍」飛行機隊、母艦に先行して宇佐海軍
 航空隊へ凱旋

昭和十七年 四月  十日 第三代司令 伊藤良秋大佐着任

昭和十八年 一月 ニ〇日 第四代司令 三浦艦三大佐着任

  二月  一日 第十一・十二・十三・十八練習連合航空隊を統括した練習
 連合航空総隊編成(司令部 霞ヶ浦海軍航空隊 初代長官
 戸塚道太郎中将)

  三月  一日 第五代司令 山田豊大佐着任

  七月  九日 近郊町村からの勤労奉仕隊による掩体壕作り作業始まる

 十一月 十五日 第六代司令 山本榮大佐着任(大分海軍航空隊司令兼務)

 十二月二十五日 第七代司令 浜田武夫大佐着任

昭和十九年 二月 十五日 柳ヶ浦駅から兵器廠までの引込線完成

  三月  一日 宇佐海軍航空隊定員(合計一八ニ一名、内兼務九十八)
 ・士官   一一七名(内兼務五五)
 ・特務士官 八十四名(内兼務四〇)
 ・高等文官   二名(内兼務一)
 ・准士官  五十五名
 ・下士官  三五三名
 ・判任文官   六名
 ・兵   一ニ〇四名

  七月 一〇日 第八代司令 直井俊夫大佐着任

 一〇月三十一日 第三航空艦隊の「一式陸上攻撃機」進出に備え滑走路の拡
 張工事中(大部分が朝鮮人労働者)

 十一月  五日 この日以後「九七式艦上攻撃機」の飛行予備学生による飛
 行訓練中止。亜号燃料(アルコール)使用による燃料タン
 ク改修のため

 十二月 十三日 「飛龍」使用の陸軍重爆撃機隊、航法・雷撃法取得のため、  約一週間前から来隊中

昭和ニ〇年 一月  一日 宇佐海軍航空隊の戦力(定数)
 艦上攻撃機 六十六機、艦上爆撃機 四十八機

  初等 飛行場滑走路のコンクリート舗装完成
 (六〇m×一五〇〇m、最終的には八〇m×一八〇〇m)

  一月 十九日 「九九式艦上爆撃機」「九六式艦上爆撃機」飛行訓練中止

  一月二十三日 「九六式艦上爆撃機」飛行訓練再開

  一月二十五日 「九七式艦上攻撃機」飛行訓練再開

  二月  九日 第七〇一海軍航空隊「彗星」飛行隊が、豊橋基地から宇佐
 に進出

  二月 一〇日 第五航空艦隊新編(鹿屋、司令長官 宇垣纏中将)

  二月 十一日 第七ニ一海軍航空隊攻撃第七〇八飛行隊(飛行隊長 足立
 次郎少佐)桜花第十四部隊(分隊長 湯野川守正大尉)
 宮崎基地から約三〇機の「一式陸上攻撃機」で宇佐海軍
 航空隊へ移動

  二月 十四日 米軍第五八機動部隊がウルシー泊地を出撃したとの情報に
 より、一八時に出撃準備命令が下り、翌午前四時から第二
 警戒態勢に入る

  二月 十五日 待機中の攻撃隊、出撃延期

  二月 十六日 練習連合航空総隊司令官から特別攻撃命令訓練発令
 (宇佐には二月十八日〜四月末にかけての特攻訓練に一一
 〇名の割り当て通知)

  二月 ニ〇日 特別攻撃隊員として選抜された飛行学生、飛行予備学生及び  飛行予科練習生出身の搭乗員に対して特別攻撃訓練開始

  二月二十四日 駅館川東岸の川岸段丘崖面を利用した遂道の掘削に着手
 (奥行き八〇mのものを四、五本掘り、相互に連絡させて
 病室、兵舎等として使用する計画であった)

  二月二十六日 二月ニ〇日からの特別攻撃訓練終了、特別攻撃隊要員内定

  三月  一日 練習連合航空総隊が解隊され、作戦部隊となる。
 宇佐海軍航空隊は第一〇航空艦隊(司令長官 前田稔中将
 )第十二連合航空隊(司令官 藤吉直四郎少将)所属とな
 る

  三月  一日 鹿屋基地の第七ニ一海軍航空隊司令岡村基春大佐、宇佐作
 戦基地の整備作業を指導するよう命じられる

  三月  五日 駅館川東岸に掘削中の隧道八本(奥行一〇〇m程)、横の
 連結路により自在の連絡路となっていた

  三月 十八日 アメリカ艦載機による初の空襲
 この後飛行場周辺にニ〇ミリ連装の機銃陣地が構築される

  四月  一日 米軍、沖縄本島へ上陸
 第一〇航空艦隊、第五航空艦隊の指揮下に入る

  四月二十一日 第二〇航空軍第二十一爆撃兵団第七十三爆撃航空団所属の
 B29二十九機による空襲(B29による初空襲)宇佐海
 軍航空隊は壊滅的被害を被る。以後宇佐空司令部は駅館川
 東岸の隧道に移転

  四月二十六日 防空作業で横穴壕に迷彩を施す

  五月  四日 宇佐海軍航空隊解隊。第五航空艦隊所属の西海海軍航空隊
 管轄下の基地となる

  七月 十五日 司令 糸永冬生中佐着任(終戦まで在任)

  八月  一日 有蓋掩体壕 中型   一基 小型 九基
 無蓋掩体壕 中型 四十一基 小型 六基
 「桜花」格納隧道  一〇機分 切込掩体 三十三機分
 三角兵舎 三十七棟 隧道 三〇〇〇m

  八月 十五日 終戦
 残存兵力
・零式艦上戦闘機  二四機
・艦上攻撃機「天山」十四機
・九九式艦上爆撃機  七機
・艦上爆撃機「彗星」 三機
・九七式艦上攻撃機  四機
・九〇式機上練習機  二機
・九三式中間練習機 四二機
・二式陸上中間練習機 一機
・一式陸上攻撃機   三機

 午後、厚木基地から陸上爆撃機「銀河」一機飛来し、徹底
 抗戦を呼びかける伝単投下

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  八月 十六日 第八〇一海軍航空隊の「一式陸上攻撃機」宇佐まで復員兵
 を空輸

  九月二十三日 柳ヶ浦駅前の憲兵隊解散

  十月  九日 柳ヶ浦町町議会が戦後初めて開かれる
 「憲兵隊建物並同官舎建設用資材寄付申出ノ件」
 「その他ノ件」
 官舎は瓦をふき学校とする(昭和二十年四月二十一日の空
 襲で破壊された、柳ヶ浦高等女学校か三州国民学校か、い
 づれか不明)
 資材は農業倉庫へ保管。後に戦災者へ払い下げ、もしくは
 譲渡されている

 十一月二十五日 柳ヶ浦町議会で「航空隊跡地処分ニ関スル件」審議
 食糧事情が急迫していたため、一区(柳ヶ浦町農地委員会
 の言う「第一次配分(柴地)」か)を優先的に、航空隊の
 開墾を許可
 
 十二月 十三日 柳ヶ浦高等女学校復旧に航空隊敷地五六〇〇坪払下決定

昭和二四年 二月  四日 柳ヶ浦町農地委員会「第一次配分を除く全部(格納庫前庭
 コンクリート敷分・元庁倉付近)の開拓希望者の調査。希
 望者は同七日までに申し込めとある

 後開墾は進み、同航空隊設備は「北門」他少数の掩体壕な
 どを残して消滅する

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組織、設備に関しては一通り入隊、卒業、配備、事故、空襲に関しては、
「飛行場」の話でもあり、また面倒なので、「初め」の部分だけしか書いてません。


参考文献:井上治広「宇佐海軍航空隊年表」、 宇佐航空隊の世界 III
    「柳ヶ浦町史」


ごるぴゐ >  うーむ…この二つの資料だけでもかなりのことがわかりました。でも…肝心の飛行場名がわからない(w スレッド62にかかれてありますが、飛行場の名称調べって存外難しいんですね… (2001/01/23(Tue) 01:55:23)
ごるぴゐ >  あとは地元の議事録、新聞などのチェックかな…これからは現地の図書館や、上記の資料を纏められた方に訊くことになりますか。ああそうそう、調べていくうちに「宇佐甲飛会」(ここで研修を受けていた甲種予科練習生の会)という団体も実在しています。纏められた書籍もあります。そこにお話を伺うと言う手も見つかりました。次は現地調査の段階ですね。 (2001/01/23(Tue) 01:55:43)

投稿者:アーサー 投稿日:2001/01/27(Sat) 13:16:47

 宇佐は、現在城井に掩耐壕が保存されています。
宇佐市が周辺を整備しており、壕内には別府湾で引き上げられた
零戦のものとされるプロペラ付きエンジンが置いてあります。
周囲の車止めは当時の滑走路のコンクリートの破片を再利用してあります。
エンジンには囲いもなく、近くで見られ、当時の工作精度も伺うことが
できます。
 配置機は主に艦爆でした。高橋赫一中佐のお子様も近くにお住まいと
言われています。