投稿者:ごるぴぃ 投稿日:2001/01/03(Wed) 13:40:43
あと海軍の「佐伯空」がありましたが、こちらは水上機だけだったようで投稿者:ごるぴゐ
、赤とんぼや零式三座、零式水観など配備されていたそうですが、詳しい
事はわかりません。
佐伯海軍航空隊の話。大分県 佐伯海軍航空隊について
「佐伯平和祈念館やわらぎ」が佐伯市鶴谷町3丁目3-12
(0972-22-5700)にあるそうです。
http://www.city.saiki.oita.jp/frame/frame09.html
ここから当たってみるのが早計でしょうか。
ちなみに佐伯は「さいき」と読みます。大正時代に呼称が町議会で決まっています。投稿者:アーサー
駅も「サイキ」です。
しかし海軍機の略称ペイントは「サヘ」なんです…これは「サヘキ(さえき)」の略
と思われるのですが、そう考えると疑問も湧きます。「サヘキカイグンコウクウタイ」
が正式名称だったのか…?でもそれだと、なぜ地元呼称の「サイキ」を使わなかったの
か…?
でも一般に佐伯は「サヘキ(さえき)」と読みますね。古くは仁徳天皇の割と有名な
逸話に佐伯という人の話が出てきます。佐伯氏は山岳部族で、その部族名だったと考え
られているようです。
で、この佐伯さん、仁徳天皇の不興を買って、広島県に追放されています。そこから
なのかしら、広島県の佐伯は「さえき」と読みます。
航空隊の略称は「サヘキ」の方が通りが良かったからでしょうか。また「サイ」は別
の部隊に割り当てる予定があったのでは、とBUN氏が語っていましたが、そんな理由があ
ったからでしょうか?
ま、それはそれとして、航空隊開隊までのいきさつ。
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昭和六年二月二十八日
「開会中の町議会の席上に、阿部大分県知事から東九州海岸に海軍航空隊設置の計画が
あり、佐伯湾はその有力な候補地の一つになっているという通達があった。全く晴天の
へきれきともいうべき一大朗報で、町会は議案の審議はそっちのけで、直ちにこの通報
に対する緊急協議会に切り替えた。協議会では海軍航空隊を佐伯に誘致することを満場
一致で決定し、とりあえず誘致運動の第一着手として、議員から委員を選んで、早急に
上京させることにした。」(佐伯市史,p398)
昭和六年三月初旬
野村一也町長とともに第一次上京班が上京。
昭和六年三月二十日
「緊急町会が招集され、上京委員から運動経過の報告を聞き、町会議員、各区長、消防
小頭、商工会幹部、在郷軍人会幹部、地元女島代表、新聞社長など六十余名を委員とす
る航空隊設置期成会を結成することを可決して、この誘致運動を強力に推進することに
なった。
航空隊設置期成会は、まず町民の世論を喚起し、この運動を協力に展開するため、四
月五日の夜朝日座(向島にあった劇場、昭和九年焼失)において町民大会を開催した。」
(前出,p399)
昭和六年三月二十二日
「女島飛行場問題こそ今年の佐伯町として最も重要な問題である。他のいずれの候補地
に比し、はるかにすぐれた立場にある女島飛行場は、どんなことがあろうとも決して他
に譲るわけにはいかぬ。」(同日付「佐伯新聞」)
これから呼称が「女島飛行場」であったことがわかりますが、恐らく俗称でしょう…
実際は女島、長島、野岡などの広大な敷地を有しておりました(後述)
以後、最後に残った対立候補、宮崎県富高(都城市近辺らしい)と激しい誘致合戦が
繰り広げられ、佐伯新聞にも随分取り上げられているようです。その間、野村呉鎮守府
長官がこっそり女島海岸を視察したり、海軍の調査飛行が行われるなどしています。
昭和六年七月一日
「こうしてついに佐伯に内定した。七月一日、佐伯新聞社の東京特種機関から、海軍航
空隊新設置が佐伯に内定という特電が入った。佐伯新聞は直ちに号外を出して町内に速
報した。」
「七月一日に呉鎮守府の建築部長が早速来県して、県当局と種々打ち合わせをした。
(中略)海軍では当時の事情から九州東海岸の航空隊設置は急を要していたので、確定
とともに土地を買収し、直ちに工事に着手することになっていた。」(前出,p402)
昭和六年八月七日
「佐伯新聞社東京特種機関から「佐伯航空隊設置案只今海軍大臣の決裁を了す」との飛
電があり、すぐ号外が出た。」(前出,p402)
これから用地買収問題の解決がすすみ、最終的には
「その用地は、女島の一部四万四千坪、女島側海岸二十四万五千坪、長島側四万八千坪
、合計三十七万七千坪。そのほかに野岡山八千坪、長島山六千八百坪及び長島の土地一
部が含まれる膨大なものであった。」(前出,p403)
昭和六年八月二十日
「海軍省から正式に佐伯海軍航空隊設置決定の発表があった」(前出,p403)
「いよいよ佐伯海軍航空隊建設の第一歩として、九月七日呉鎮守府建築部から桑原主任
技手ら数名が来町し、町役場楼上を仮事務所として建築事務の準備を始めた。
完成は昭和九年の予定で、その規模は最初からの計画どおり水陸四隊で、呉鎮守府の
所属隊となるとのことであった。
工事予定は、まず長島に建設事務所を設け、捨石護岸工事及び埋め立てからはじめ、
十一月頃には女島の埋め立て、十二月中には長島のほうも同様工事にかかる。そのころ
から女島の陸上機飛行場になる三十三万五千坪の埋め立て工事が着手され、翌七年一月
には、長島でも水上機飛行場をはじめ、庁舎や兵舎を建てる五万八千坪の埋め立てが開
始される。また、佐伯駅から航空隊正門に通ずる道路幅員五間の道路、および長島側を
渡る橋は、工事材料の運搬など工事の進ちょく上急を要するので早々に着手し、中江川
の架橋は八年一月ごろの予定になった。なお、上水道工事や庁舎、兵舎その他付属建物
の建築など、順序良く予定が立てられており。そして遅くとも八年の四月には水上機滑
走台が完成される運びとなっていた。
工事には少なくとの千名くらいの職工や人夫が必要で、地元の人をできるだけ多く使
う趣旨で、公募したところ、当時不況の折であったので、希望者が殺到し、その数が三
千名を越えたという。」(前出,p403-404)
昭和九年二月十五日
「まだ工事は完成までには至らなかったが、開隊式を挙行した。晴れの日を迎えた航空
隊では『佐伯海軍航空隊』のま新しい表札を掲げる正門の、日章旗が寒風にはためく下
に、初めて衛兵が立った。水上機が爆音高く飛来して祝意を表わし、喨々とひゞく君が
代のラッパとともに、軍艦旗が正面マストに高く掲揚された。ここに佐伯海軍航空隊は
、国防の一翼として羽ばたき、非常時日本の空の守りとして開隊したのである。その日
の日付で、司令以下の幹部が発令され、初代司令として別府明朋中佐が任命された。
なお、この航空隊と時を同じくして、呉海軍軍需部の佐伯支庁が発足し、軍需資材の
補給任務についた。場所は長島で現在興人の社宅街になっているところである。」(前
出,p404-405)
昭和九年十一月四日
佐伯海軍航空隊の竣工式が隊内グラウンドで挙行。
「佐伯町ではこれに呼応して、町と商工会との共同開催で、「航空隊竣工祝賀会」と銘を
打って、四日から六日まではなやかに祝賀行事を繰り広げた。」(前出,p405)
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「昭和十二年に旧佐伯町を解散し、鶴岡、上堅田両村と合併して新佐伯町となり、さら
に昭和十六年には、佐伯町、大入島村、八幡村、西上浦村の一町三村が合併して、四月
二十九日の天長節の佳日に市制を施行した。初代市長には元豊予要塞司令官であった郷
田兼安が就任した。こうして軍都佐伯市が誕生したのである。」(前出,p405)
とまぁこんなところです。
文面からローカル新聞であった「佐伯新聞」の文章を多用しているらしいことがわか
ります。現在この新聞はありませんが、郷土史資料館か図書館に残っているようです。
しかし、「柳ヶ浦町史」のところで、最初の司令官の名前が違うことを見つけている
ので、少なくとも人名に関して、信頼していいものかどうか…まだいろいろ調べないと
いけませんね。
佐伯は、戦前から、連合艦隊の停泊地でしたが、
現在跡地は工業地帯となっています。
ただ、旧庁舎は現在も海上自衛隊の佐伯分遣隊と
なっており、隣接地には佐伯市の平和記念館「やわらぎ」
があります。別府の「なるみ」などで書かれた旧海軍士官の
書や、佐伯空の資料が保存されています。
また、駅からの途中には佐伯空の門柱がそのまま
ありますが、看板もなく、放置されています。なくなっていないのが
不思議なくらいです。
固有の配属機は、余りなかったようですが、艦攻の訓練基地としての
ウエイトが大きかったようです。