横浜水上飛行場(本牧)

投稿者:くろねこ 投稿日:2000/12/15(Fri) 14:36:20

 横浜飛行場は横浜市磯子区芝生町海岸を埋め立てて設けられた。陸地面積は11,908坪の水上飛行場である。此処には中央航空研究所の建物・施設のほか、大日本航空の南洋定期航空(横浜−サイパン−パラオ間の定期航空、川西97式四発飛行艇使用)用離着水場として、3,000坪の大格納庫と、会社事務所、税関、待合室などを含む600坪の建物が、昭和16年3月に完成した。なおポルトガル領チモール島間定期便も此処を発着場とした。
→横浜飛行場に関するより詳しいことは、「私の航空博物館」(おおば比呂司/東京堂出版/新橋・航空図書館蔵)に収録。
 昭和14年末、大日本航空(大日航)は南洋定期航空の開設に伴い、横浜支所の移転・拡充を図ることになった。そして適地を探した結果、根岸湾内のため波浪が穏やかであり、また近くに飛行艇専門部隊である横浜海軍航空隊があることなどから、横浜市八幡町海岸の市の埋め立て地を選定し、飛行艇基地の建設に着手した。昭和16年4月にはほぼ工事が完成し、横浜支所が此処に移転された。この新装なった横浜支所からの出発第一便は4月16日の川西四発飛行艇「浦波号」であった。

 横浜基地の規模は用地2万坪、滑走水面2,500平方メートルという大きなものであった。格納庫は約3千坪のスペースを持ち、川西97式四発飛行艇が一度に8機収容可能というマンモス格納庫であり、根岸海岸の偉観となった。飛行艇昇降用の滑走台(長さ90m、幅40m)も完備されて、機体の整備・点検上も利便性が高かった。その他大日航の支所事務所、旅客用待合室および整備工場をはじめ、航空局、税関、気象台等の官庁事務所を収容する総合施設も整えられた。

 同時に横浜工場が建設された。工場では工場長以下250名の職員が日夜、機体および発動機のオーバーホールや艇底の張り替え等の修理に従っていた。同工場は我が国唯一の飛行艇専門の民間工場として重要な役割を果たしていた。一方、支所整備係は南方航路を1往復して帰着した機体の目視点検、潤滑油・点火栓・発動機の交換作業などに取り組んでいた。

 こうして横浜支所は、大日航の飛行艇関係の最大の基地として、その最盛期には事務職員30名、運航整備職員50名、搭乗員150名、さらに工場関係者を加えると500名に近い人員を抱えた大支所に発展していった。 
投稿者:tow 投稿日:2000/12/18(Mon) 11:19:19
位置、構造物概要は押さえてますので今度現状写真を撮ってきます。
# 根岸の市営プールですよ。国道16号八幡橋交差点近傍でも可。

戦時中は海軍に会社ぐるみで徴用され、内南洋(横浜−サイパン−パラオルート)
の旅客輸送を行いつつ、横須賀鎮守府第7輸送隊の拠点として使用されました。
二式大艇の特集で必ず出てくる「横鎮74・敷島艇」の写真は、ほとんどがこの
横浜飛行場で撮影されたものの様です。
# 写真が沢山残っているのも民間徴用故では無いかと邪推してます。

山本五十六大将が戦死する直前に内地からトラックまで輸送したのも大日航
社員の操縦する機体だったもようです。

海軍横浜航空隊横浜基地とは、湾を挟んで対岸に位置し、富岡−本牧を結ぶ
ラインの湾内側を両者の滑水エリアとしていたようです。
# 戦後残存飛行艇はこの富岡−本牧ラインの外側に沈められたといいます。

海軍の飛行隊員は横浜飛行場を「本牧」、横浜基地を「富岡」と呼び、区別して
いたようですね。