○○飛行場

(由良飛行場)

兵庫県は淡路島・三原郡三原町では、○○飛行場というのが あったそうです(まるまるひこうじょうと読む)。

ここはいわゆる欺瞞飛行場で、可動機は皆無、粗末なデコイばっかり 並んでたそうです。近辺は水田がひろがる平野だったので、
造りやすかったんでしょう。欺瞞効果のほどはよくわかりません。 特攻隊の休憩基地だったとの噂もありますが、私には 資料がなくてよくわかりません。

飛行場は現在跡形もなく、元どおりの水田になっていますが、 建材のコンクリート片なんかは用水路や石塀のの石垣がわりに 再利用されています。

「三原郡史」より抜粋。 昭和十八年十一月、三原郡榎列村村長ならびに同松帆村村長に対し、陸軍は「三原平野に阪神防空用戦闘機基地として飛行場を建設するから協力せよ」との命令が下る。
同地区の人々は、軍機漏洩罪を恐れ、これを「○○」とのみ呼んだ。これが「○○飛行場」の語源である。
飛行場用地は同地区の農地百八十haで、関係者は五百戸、うち四十二戸は家屋敷まで当局の一方的な価格により買収された。
翌十九年三月より建設準備、四月八日には地鎮祭が行われた。それより連日、千人あまりの兵隊・作業員による突貫工事が始まる。
同年九月には一部使用が始まり、中部四一五八部隊が到着。松帆国民学校は兵舎となり、学童は公会堂・神社仏閣で授業開始。
十月、第一九〇三五飛行場大隊(本隊)が駐屯。
十一月二十二日、中部一二七部隊の開隊式。幅三十m、長さ千mの東西滑走路、格納庫が完成し、戦闘機も離着陸し始める。
しかし翌年から本格的になった阪神地方の爆撃にも、同飛行場は全く役に立たなかった。機に空中退避や偽装網を掛けることにのみ専念したようである。
それでも全島からの勤労動員によって付帯工事が進み、二十年七月に完成したものの、まもなく終戦になった。終戦当時は第一九〇三五飛行場大隊であった。
同十一月十三日、進駐軍により、飛行場は火器をのぞき兵庫県淡路支庁を経て 大蔵省に移管。この飛行場は由良要塞司令部管轄下にあったので、「由良飛行場(所在地三原)」とされた。同月、日本政府は「緊急開拓事業実施要綱」を実施。飛行場は再び開拓されることとなる。
二十二年十月から二十六年にかけて、飛行場跡は順次自作農の手にもどった。

以上が○○飛行場の概要です。
飛行場は横風用の滑走路も予定されていたようですが、未着工のまま終戦となったようです。
同じ「三原郡史」には、「三原郡民号」と書かれた献納機の写真がありますが、かなり写真修正された一式戦隼T型で、これが○○飛行場にあったのかどうかは不明です。
地元・三原高校放送部が取材したラジオ番組がありますが、それによると、当時の社会常識から軍に協力することは無条件に賛成しなければならなかったとしても、やはり住慣れた土地を去る気持ちは相当複雑だったようです。
瓦や基礎石までひとつずつ分解して、他で組み立てなおせる人はまだいいほうで、男手がないために仮住まいですませる人もいたそうです。
肝心の飛行部隊は、空襲警報が鳴っても敵対せずに飛行機を隠したり、逃げたりの連続だったようで、そのためにかえって被害が最小限ですみました。
そんなところから、欺瞞飛行場だったという話になったのでしょう。

結局、飛行場が戦時に正式名称でなんと呼ばれていたかは判らずじまいでした

○○飛行場の跡地付近にある農家なのですが、 塀に滑走路の舗装コンクリートをそのまま使用しています。 家の方向に滑走路表面側を向けているので、外見は でこぼこになっています。

骨材には、現在のような砕石ではなく、自然石をそのまま 用いています。石はよそからもってきたもののようで、周辺に 転がってるものとは質がちがいました。

地面を簡単にならした後に、一定間隔で型枠を設置して コンクリートを流し込んだため、裏面がでこぼこなのだと思われます。

軽トラックと婦人がしゃがんでいる写真の敷石は、まさに 滑走路の状態そのままと思われます。これで見るように、 当時の滑走路は想像以上にきれいなものだったようです。

真実一路さんもHPで書いておられましたが、未舗装が日本軍飛行場の 特徴だというのは、ちょっと誤解なのかもしれません。

写真の婦人は、実際に滑走路から馬力(地元の方言。馬車のこと)で この家まで運んだそうです。

なんだか「国破れて山河あり」というよりも、農民のしたたかさを 感じますねぇ。

                       近野 新

資料作成は淡路島農民車考の近野新さんです


[208] ○○飛行場 投稿者:野上 厚一 投稿日:2003/07/13(Sun) 13:28:20
淡路島三原郡三原町の○○飛行場は欺瞞飛行場で可動機は皆無で特攻隊の休息地との噂もあつたようですが、 私が昭和二十年春頃キ-84(疾風)の操縦習得のため 第十練成飛行隊へ転属そのときは由良飛行場と言って居ました、
ここは本土より全て船便で輸送していたので、燃料、新聞、タバコその他の物
が不自由でした、間もなく三重県の北伊勢飛行場に移動しましたので、その後の様子は不明です。