札幌飛行場

投稿者:くろねこ 投稿日:2001/01/14(Sun) 17:35:40

札幌飛行場
札幌市北24条西6,7条に整備された北海タイムスの飛行場が元。
大正14年(1925年)、北海タイムスの後援による道内宣伝飛行を
行う際に同地が選定され、借り入れられた。当時の同付近は約1町
(約109メートル)四方ごとに升目状に区画整理され、道路もすでに
完成していた。飛行機の離着陸は区画内を対角線上に利用して
行われていた。
大正14年6月26日、永田重治操縦士の操縦するアブロ式504K複葉機が
初の試験飛行を実施した。

昭和2年(1927年)1月には、北海タイムスにより亜鉛版製の格納庫
(80坪)、事務所(15坪)、操縦員住宅ならびにガソリン庫が整備
され、以後北海タイムスの新しい拠点となった。当時の飛行場の
規模は面積6町6反7畝33歩(約2万坪)の面積を誇り、同社は
サルムソン3機を保有していた。
しかし昭和3年の終わり頃、格納庫内で出火し、格納庫が全焼した。
その後、北海タイムスは同飛行場を拠点として、報道飛行や
道内定期航空を実施していた。

昭和8年6月9日、札幌飛行場は逓信省管轄の飛行場として拡張され、
新たに開場した。同飛行場は、北24条西1丁目を起端とする16万坪の
大飛行場であり、飛行場の中央には1字30尺の「サッポロ」の
白地の文字標識が置かれていた。滑走地帯は芝生張りであり、
信号塔には赤い吹き流しが付けられていた。その他開場時の設備は
北海タイムスの格納庫以外に、計量機室、修理室、門柱
(「真実一路」参照)があり、後に日本航空輸送の格納庫、飛行
事務所等が整備されることになった。

そして昭和12年(1937年)3月には逓信省より飛行場長が派遣され、
4月1日から、日本航空輸送のフォッカー・スーパーユニバーサル機
により、初の東京(羽田)−札幌間(仙台、青森経由/片道6時間)
定期輸送が開始された。
これに先立ち、直前の3月末には飛行場の積雪除去作業が行われたが、
この作業は東西400メートル、南北300メートル、幅50メートルを十字状に
除雪し、黒土を露出させ、道庁から借りたトラクターで土を固めると
いうものだった。

東京/札幌間定期飛行は翌昭和13年(1938年)11月、フォッカー機が
東嶽山山中に墜落したことから一時中止されていたが、昭和15年
(1940年)7月(大日本航空への改編後)には無期限運休が決定され、
完全に終結した。
打ち切りの理由は、札幌から北樺太、カムチャッカ方面への路線
展開が望めないことから、札幌線は軍事的価値が低く、時局がら
重要性を増す中国、満州方面に比べ、国家的に運航する重要性が
低いとみなされたためであった。

昭和17年(1942年)9月には、日米開戦により北海タイムスは施設一切
(飛行機3機、格納庫2棟(100坪、62坪)等)を大日本飛行協会に献納し、
以後札幌飛行場は札幌飛行訓練所となり、陸軍教官により北大などの
学生に操縦教育を施す場となった。練習機は95式1型、3型等が使用され、
戦争末期には特攻訓練が行われた。

主要参考文献 「さい果ての空に生きる」(上出松太郎伝)平木国夫著、
酣燈社、1977