太刀洗陸軍飛行場


太刀洗飛行場は第二次大戦当時、日本陸軍が東洋一と誇った航空戦略の拠点であり、特攻基地でもありました。

設立されたのは大正8年(1919)のこと。

以来、時局の移り変わりに応じて部隊及び設備も逐次増強され、さらに幾多の変遷の中で基幹部隊である「飛行第四戦隊」から数多い実戦部隊を編成して満州、上海・支那事変において目覚しい戦果をあげました。

しかし飛行第四戦隊の熊本菊池飛行場への移駐に伴って「熊谷陸軍飛行学校太刀洗分教場」となり、さらに「太刀洗陸軍飛行学校」、「第五航空教育隊」が新設されるとなど、太刀洗飛行場は実戦部隊の飛行場から次第に教育的施設の色を濃くしていきました。

戦局が悪化する中で爆撃機「飛竜」の部隊による特攻が行われるなど、若い命が数多く大空に散ったのです。

終戦間際の昭和20年3月、九州以西の航空関係の整備・補給・通信などの中枢としてその存在に注目した米軍の大空襲により壊滅的な打撃を受け、約27年におよぶ太刀洗飛行場の歴史を閉じたのです。