福岡(名島)飛行場は、福岡県が国からの委託工事として、昭和3年8月1日から着工し、昭和4年3月25日に竣工した。当時は福岡県糟屋郡多々良村大字名島字城山、その昔、小早川隆景が築城した居城跡の北側海岸を埋め立て、7,500坪の敷地が造成されたもので、国が引き渡しを受けてから地上設備の整備が開始された。先ず場内の一隅に逓信省航空局の管理局舎が建築され、飛行場長が着任し、福岡飛行場の看板が掲げられた。なお日航太刀洗支所もこの監督下に入ることになった。
続いて福岡航空無線局および福岡航空気象観測所、官庁舎が開所し、前面岸壁上、左右に水上機吊揚用10トン吊タワークレーン2基が建設され、太刀洗−名島間直通電話も開通した。続いて、日本航空輸送(日航)の社屋および格納庫2棟と付属建物の建設が開始された。
昭和4年8月、日航福岡(名島)支所が開所し、開所式が執行された。支所の陣容は所長以下会計、庶務、整備、操縦士、機関士など40余名を数え、スーパー水上機も入荷し、大阪−福岡間の水上機定期にこぎ着けたのが同年8月だった。
なお、福岡第一(雁の巣)の供用開始以前、福岡発着陸上定期便は太刀洗陸軍飛行場を借用していた。
by くろねこ
昭和3年7月19日 福岡県は福岡飛行場建設事務所を馬出第2国道改築事務所内に設置
昭和3年10月20日 漁業権放棄承諾:粕屋郡 多々良村 大字名島 字城山の海面3100坪を埋め立て
と危険防止のため1万2千坪の制限区域の漁業権放棄を補償金3,210円で 箱崎浦漁業組合
及び福岡漁業組合との間で合意。
昭和4年4月1日 官報六七四号 福岡飛行場設置に関する件
逓信省告示第978号で「本日ヨリ左記飛行場を設置ス」として東京飛行場、大阪飛行場と
並んで福岡飛行場を指定する。
福岡飛行場
背景の山は香椎の立花山と三日月山 川崎造船所がライセンス生産した ドルニエDoJワールを運ぶ十屯固定塔型起重機
初飛行: 1922 乗員:2 乗客:8-14 | |
大型のドルニエ機は白鳩号と呼ばれ、柔らかい敷物と椅子のあるサロンも
あって15.6人が乗れたようです。 あまり運行しない内に昭和7年ごろ、吹雪のため視界不良で八幡市の帆桂山に墜落して6人が犠牲になったようです。 | |
日本航空輸送福岡支所の格納庫を沖合いから眺める 背景の山は名島城跡 |
中島飛行機がライセンス生産した フォッカー・スーパーユニバーサル水上飛行機
Nakajima Fokker Super-Universal Passenger-plane |
昭和5年7月31日 福岡市議会は陸上飛行場設置に関する委員会設置の建議案をだしました。 内容は名島に接続地帯に移転併置を要望
昭和7年5月3日 日本空輸のフォッカー機 東京-大刀洗の夜間飛行試験成功 925km 7時間20分
昭和8年3月9日 帝国議会衆議院で福岡市に陸上飛行場設置が建議案委員会で可決しました。
昭和8年12月13日 福岡県議会は福岡陸上飛行場設置は粕屋郡和白村の松林が財政的、技術的にも 都合が良いとし 建設費52万3200円のうち逓信省の予算35万3000円、地元負担19万1000円、 福岡市が65%県が35%とする決議をしました。
昭和9年10月 日本航空輸送の定期運行停止。主な原因は大坂の本社が高潮で 航空機に被害がでたためといわれていますが、水上機の利用価値が少なくなった ため 再開はされませんでした。
格納庫は解体されて雁ノ巣の福岡第一飛行場に移設されることになりました。
昭和11年6月1日 官報二八二二号 逓信省告示千二百二十三号
「逓信省管制第六条ノ二項ノ規定ニ依リ左ノ飛行場ヲ置ク」
名称 | 位置 |
東京飛行場 | 東京都鎌田区羽田江戸見崎 |
大阪飛行場 | 大阪市大正区船町 |
福岡第一飛行場 | 福岡県粕屋郡和白村 |
福岡第二飛行場 | 福岡県粕屋郡多々良村 |
那覇飛行場 | 沖縄県島尻郡小禄村 |
陸上飛行場ができたことで水上飛行場は利用価値が少なくなり「福岡第二飛行場」と名前を変えることになりました。
米軍の航空戦史調査センター(AirForce Historical Research Center)によると
爆撃目標コード 1237 とされています。
隣の香椎町千早にある九州飛行機及び九州兵器の工廠の防衛のため、
叉は零式水偵(E13A1)を作っていたのでそこから運び出すため、海軍で使用されたかもしれません
多々良海軍飛行場 昭和20年七月(1945)航空隊開設と記した書があります。
戦後のGHQの進駐記録にないので軍事的な価値はなかったと思われます.
洗濯場として米軍が使っていたとの話があります。