昭和11年6月6日、福岡県糟屋郡和白村奈多、通称雁の巣埋め立て地に新しく水陸両用の飛行場が誕生、その開場式が盛大に行われて福岡第一飛行場と命名された。その敷地面積は232,642坪であった。
ただし航空無線電信施設や航空気象観測所はもとのまま(名島?)で、結局これらが場内に移設されて完全な形態を整えるに至ったのは、昭和16年になってからだった。
このとき飛行場は東西790m、南北800mの滑走距離を有し、当時朝鮮・関東州・満州・北支方面、中支方面、沖縄・台湾・南支方面への連絡の拠点であり、東京(羽田)とは急行便および普通便で結ばれているといった状況で、国際飛行場の性格を持った重要飛行場として、常時仲々の活況を呈し、したがって夜間照明施設なども外国に劣らない新式の設備が施されていた。
昭和9年、福岡県と福岡市の強い要望により、陸上飛行場創設案が実現することになり、政府が出資金30万円を組み、県と市が各15万円を負担、合計60万円で飛行場を建設しようとしたが、この額は土地買収費にも満たなかったため、結局敷地を無償で獲得するために、雁の巣一帯の国有防風林を農林省から逓信省に移管することになった。そして防風林の松の古木の密生を伐採し、砂地面に赤土を敷き、展圧して、芝生を移植し、滑走路及びエプロンをコンクリートで造成した。
この工事は、県が国から委託を受けてし昭和10年1月着工、昭和11年5月に竣工し、国に引き渡された。
その後、同飛行場では昭和19年春、新たに40,524.26坪を買収して加え、また同年夏には福岡営林署から256,509坪の管理換えを受けた。結局、終戦時には総計529,675.26坪の大飛行場となっていた。
竣工・引き渡しを受けた航空局は、局舎を建築し、飛行場長を着任させた。また、太刀洗へ直通電話線を開設し、以後日本航空輸送(日航)太刀洗支所もこの管轄下に入った。続いて日航福岡支所の建設が開始され、名島支所の格納庫2棟も分解され、移設作業が行われた。また続いて福岡気象観測所や警察署、税関、植物検査所等の官庁舎が開設されていった。
開場後、格納庫2棟では機体が納まりきらなくなったため、第三大格納庫が増設されたが、各種運航機材(スーパー、3m、DC2、エンボイ、ビーチクラフト、中島P1郵便機、ロッキード14など)の整備(予備部品の調達など)に手が回らず、格納庫内は遊休機であふれかえるようになった。そこで大発動機工場を増設し、続いて試運転室、器財庫、計測器工場、電機工場と施設の拡充が行われた。また福岡営業所から乗客送迎用のバス運航も開始された。
by くろねこ
昭和5年7月31日 福岡市議会は陸上飛行場設置に関する委員会設置の建議案をだしました。 内容は名島に接続地帯に移転併置を要望
昭和7年5月3日 日本空輸のフォッカー機 東京飛行場から大刀洗陸軍飛行場までの夜間飛行試験成功 (925km 7時間20分)これで郵便物の定期便を始めることになりました。
昭和8年3月9日 帝国議会衆議院で福岡市に陸上飛行場設置が建議案委員会で可決しました。
昭和8年12月13日 福岡県議会は福岡陸上飛行場設置は粕屋郡和白村の松林が財政的、技術的にも 都合が良いとし 建設費52万3200円のうち逓信省の予算35万3000円、地元負担19万1000円、 福岡市が65%県が35%とする決議をしました。
昭和10年5月17日 和白村会議録 第五議案第二一号 村費寄付議決ノ件
一金 壱千円
「右福岡飛行場建設費ノ一端トシテ本県ヘ寄付スルモノトス」
昭和11年6月1日 官報二八二二号 逓信省告示千二百二十三号
「逓信省管制第六条ノ二項ノ規定ニ依リ左ノ飛行場ヲ置ク」
名称 | 位置 |
東京飛行場 | 東京都鎌田区羽田江戸見崎 |
大阪飛行場 | 大阪市大正区船町 |
福岡第一飛行場 | 福岡県粕屋郡和白村 |
福岡第二飛行場 | 福岡県粕屋郡多々良村 |
那覇飛行場 | 沖縄県島尻郡小禄村 |
昭和11年10月15日 県議会議決 飛行場用地寄付ニ関スル件
「福岡第一飛行場建設ノ為メ便宜県ニ於テ買収シタル
別紙調書ノ土地ハ之ヲ逓信省ニ寄付スルモノトス
右府県制第六十八条第一項第三号ニヨリ附議ス」
別紙
福岡県粕屋郡和白村大字奈多地内
公募面反別 | 四一七反七二四 |
実測坪数 | 四一七反二〇八 |
価格 | 六四、一五四円 |
2001年/7月撮影