投稿者:くろねこ
民間航空のパイオニアである奈良原三次が、明治45年(1912年)5月下旬に開場したのがはじまり。それまで奈良原は所沢陸軍飛行場を使用していたが、軍用機の機数が増え、操縦将校の数が増えるに伴い、民間機が気ままに飛行を行うことが難しくなり、飛行場適地を探していた。
稲毛海岸は遠浅で、干潮時には2,3000メートル以上も遠浅になるなど飛行機の滑走に適していた。また、潮が引いたあとは砂がよくしまるため、重い荷馬車が通行することができたという。もともと奈良原は此処に鴨猟に訪れていたため、この付近の地形をよく知っていた。
当時、稲毛は東京人の行楽地・避暑地として知られ、鉄道の便もよかった。奈良原は海気館という旅館を常宿とし、最初の門下生である白戸榮之助もここに泊まった。また助手の伊藤音次郎や大口豊吉主任らは千葉街道に面した商人宿・上総屋を下宿にした。海気館の庭先の海岸寄りに空き地があったので、そこに丸太組み、葦簀(よしず)張りの格納庫をつくり、奈良原式4号機「鳳号」を格納した。
6月の早々、白戸によって稲毛初のテスト飛行が行われた。このときは近所から見物人多数が集まり、海岸の街道には露店がたくさんでるなど、お祭りのような騒ぎであった。その後、白戸、伊藤、玉井清太郎、都築鉄三郎、星野米三、野島銀三、岸一太などが稲毛で飛行練習を行った。
大正2年(1913年)、奈良原は航空界を引退し、白戸と伊藤が稲毛を引き継いだ。大正4年(1915年)1月には、伊藤が伊藤飛行機研究所を創立し、操縦練習と同時に機体製作を開始し、同地で独立を図った。その後、大正5年(1916年)12月に白戸が千葉市寒川新宿に白戸共同飛行練習所を移転させ、稲毛を後にした。
白戸が去った後も伊藤飛行機研究所は順調に発展し、山県豊太郎、福永朝雄、藤原延、井上長一、佐野清三郎などが飛行練習を行った。大正6年には卒業生第一号の山県が生まれ、伊藤自身も自作機「恵美号」で帝都訪問飛行や地方巡回飛行、郷土飛行などを行った。
しかし大正6年(1917年)9月末、台風による激しい雨と高波のため、稲毛飛行場は壊滅し、新しく建てた格納庫兼整備工場、練習中の飛行機、自宅などが全壊してしまった。(伊藤の飛行機は大阪にあり無事だった)これを機に伊藤は手狭な稲毛を引き払い、大阪に飛行場建設地を求め井上とともに大阪を歩き、堺大浜を適地としたが、当局に断られてしまった。結局、伊藤は千葉県津田沼に移転することになった。
参考資料/伊藤音次郎氏の回想録、平木国夫氏の著作など