投稿者:tackow 投稿日:2000/12/20(Wed) 16:04:57
秋田県能代市の北部にあり、地元の住民の方々は概ね存在したことを知
っておられます。
ちなみに地元では「東雲飛行場」と呼ばれておるようです。
戦後開拓地となり、飛行場周辺は水田あるいは畑になっておりますが、東
西方向に直線に伸びた道路あるいは街路樹状に直線に生え揃っている松の木
等からその痕跡は明瞭に看破可能。
私事になりますが、この間まで飛行場近くで現場を抱えていたので週に2
〜3回は行ってました。数年前に実地検証を実施した時となんら変わりのな
い景色が広がっており安心しました。
また、私の叔父が大戦後半に訓練で飛来したという証言もあるのですが、
これは確実ではありません。
秋田県能代市の米代川北方に拡がる三千ヘクタールに及ぶ平坦な草原は 大正時代から飛行場の適地として航空関係者から注目されていました。
その後、 大正9年9月 高橋信夫という飛行士が東雲原にムシロを張り、入場 料20銭で離着陸の瞬間を見せ物にした。 大正10年10月 アート・スミスなる飛行士が宙返りを披露。 大正11年 秋田県出身の佐藤章なる飛行士が東雲原に飛来「本邦 でも有数の飛行場となろう」と発言。 同時期 陸軍各務原飛行隊が耐寒飛行試験を実施 という経緯を経て、地元に飛行場設営の機運が高まってきます。その頃、能代町には伊藤満吉という富豪がおり、津田沼飛行学校の校長を 招き講演会を開催したり、東雲原に飛行機格納庫の設営を実施して飛来する 飛行機の世話に当たっています。町民の間でも「能代航空研究会」なる会を設立し機関誌も発行して航空思 想の普及に努めているようです。
こうしてみると、「僻地」といって差し支えないこの地が、こと飛行機につ いては東北の中ではかなり先進の地であったことがうかがえて興味深いものが あります。
こうした中で、昭和2年5月、当時の東雲村は村有地三千ヘクタールを無償 で献納する事を村議会で決定、白川陸軍大臣に陳情書を提出。同年9月、能代 町でも同様な決議を行い、大臣に陳情しています。しかし、これは採択には至 りませんでした。
しかし、その後、飛行場への期待が大きくなる中で、昭和12年5月、陸軍 は所沢飛行場に東雲原の飛行場適地検査を実施するように命じ、江崎中将ら2 5人が能代を訪れました。
調査期間は約10日間で、地形や気流の調査、各種飛行機10機を用いての 離着陸訓練を実施しました。当時の東雲原は、単に草を刈っただけであったの で調査中に2〜3回、飛行機が転覆する事故が発生したそうです。
調査の結果、陸軍は正式に東雲原を第2種飛行場に指定し、第八師団経理部 が東雲村から千百六十一ヘクタールの用地を3回にわたって買収し、陸軍の飛 行場として整備に着手したのです。
そして、昭和15年12月、浜松飛行場の分校が東雲原飛行場に設置され、こ れを機会に飛行場の整備が本格化、在郷軍人や地元の青年団、婦人会、各種学生 ・生徒を主体とする勤労奉仕隊が地均し作業に従事しました。 昭和18年の春以降は、飛行機を掩体の造成も始まり、土盛りをして造成した 掩体が十数カ所造られました。
東雲原飛行場は訓練用の飛行場で滑走路長は1170m。大戦末期には特攻隊 の訓練が主として実施されていたようです。
訓練を実施していた生徒は技量も低く、事故が頻発したようです。そんな中、 昭和20年6月、地面にT字型に張った布を目標にして急降下・攻撃する訓練を 実施中に最大の事故が発生しました。コントロールを失った訓練機が地面に激突、 地上にいた兵士も巻き添えを喰って7人が亡くなるという惨事でした。
終戦後、飛行場は閉鎖され、国営の総合農地開発事業をして開拓地となり、滑 走路は開墾されて水田に。兵舎は農業高校として用いられていました。
現在も水田や牧草地が拡がり、終戦後に滑走路と並行して造られた直線の道路 からは、往時の滑走路を偲ぶことが出来ます。
写真解説
写真1 : 向かって右手の水田が旧滑走路。直線に伸びる道路とほぼ並行に造られており、 更に奥の林に兵舎があった。
写真2 : 旧兵舎跡に建設された高校校舎。昭和40年代までは旧兵舎を利用していた。