豊橋海軍飛行場

(戦前・戦中)

■ 豊橋海軍航空基地

 海軍は豊橋市大崎町の東側の三河湾に海上航空基地を建設することとした。 ここを選んだ理由は、
 ● 冬季北西季節風が強く着陸に好条件
 ● 三河湾を取り巻く山々が低く、飛行機の離着陸に都合がよい
 ● 飛行機関連機材の海上輸送が利く
 ● 愛知は航空機工業が発達しているので、不足部品の調達に便利
等によるものであった。

 大津島・次島・平島にわたる一帯、総面積約七十万坪の海面を埋め立て造成し、五年有余の年月と多額の費用と労力を費やして完成した豊橋海軍航空基地は昭和十八年四月に開隊の運びとなった。

 その敷地の基本形は正八角形とユニークで、そこに長さ千五百メートル・幅百メートルの主滑走路三本が対称的に建設され、その間に長さ千メートルと八百メートルの副滑走路も追加された。この島の東北部分に張り出しを設けて管理・居住地区とした。まさに日本海軍が東洋に誇る最新鋭の航空基地であった。ここと真東の大崎町との間は、海軍橋と呼ばれる長さ約六百メートルの橋で結ばれた。海上飛行場としては長崎空港に先んじて、我が国最初に建設されたことは特筆されよう。

 ここに最初にやってきたのは台南航空隊として太平洋戦争緒戦に大活躍した零戦二五一空であった。その後、対潜哨戒、B-29迎撃、夜間飛行と戦技訓練そして特攻と変遷を重ねつつ終戦を迎え、僅か二年四ヶ月の短い生命を終わる。

 戦後、この島で製塩業を営んだり、滑走路の間に田畑を耕したりしたが、工場団地として新たに大々的な造成が行われ、特徴ある島の形状は消え滑走路も取り除かれて、基地の面影はことごとく消滅した。

 豊鉄バスを終点の大崎で降り、大崎小学校北交差点から真西に延びる道路を行くと、平嶋橋を渡る。ここで人工島・大崎島に入り、地名は明海町となる。最初の信号交差点「海軍橋」は、私が目にした唯一の過去の痕跡である。近藤正典著「大崎島」(昭和五十二年刊)に、基地建設の無事を祈念して「平島神社」を建立したとあるが、遂に見出せなかった。

 この道路の突き当たりがトピー工業の工場正門で、ここまで海軍橋が来ていたと見られる。ここから南下し、中央分離帯のある道路を西の海岸端まで歩いてみたが、両側は大きな工場の敷地が続くばかりで無味乾燥、この島の前身を思い起こさせるものは何もない。更にその沖に巨大な人工島があり、この海上一帯に造成された工業団地の規模の雄大さに驚かされる。地方行政と企業はこの島の過去に何等注意を払うことなく、ひたすら高度成長の道を進んで行ったのであろう。

この文はのご好意で転載いたしました